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[簡易復元] 2010年3月、しまなみ海道を行く(3)善通寺から瀬戸大橋へ

  • 2011/11/10 12:07

 今治から松山自動車道、高松自動車道を乗り継いで善通寺ICで降り、善通寺を訪れた。空海(弘法大師)はいまの善通寺市の出身である。善通寺についてWikipediaは次のように言う。
 「善通寺 (ぜんつうじ)は、香川県善通寺市にある寺院。真言宗善通寺派総「山。屏風浦五岳山誕生院と号する。本尊は薬師如来。四国八十八箇所霊場の第七十五番、真言宗十八本山一番札所。平安時代初頭の807年に真言宗開祖空海の父である佐伯善通を開基として創建された。伽藍は創建地である東院と、空海生誕地とされる西院(御誕生院)に分かれている。(…中略…)空海(弘法大師)は讃岐国、現在の善通寺市の出身である。『多度郡屏風浦善通寺之記』(江戸時代中期の成立)によれば、善通寺は空海の父で地元の豪族であった佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ、法名善通)から土地の寄進を受け、大同2年(807年)に建立し始め、弘仁4年(813年)に落成したという。空海の入唐中の師であった恵果が住していた長安の青龍寺を模して建立したといわれ、創建当初は、金堂・大塔・講堂など15の堂宇であったという。寺号の善通寺は、父の名前である佐伯善通から採られ」、たとされる。
 善通寺は広い境内を持ち、立派な本堂(1枚目の写真)、五重塔(2枚目)、鐘楼などを持っていたが、私が一番気に入ったのは素晴らしく強い香りを放つ桜「涅槃桜」であった(3枚目の組み写真)。写真の下部分をお読みになればわかるが、ミョウショウジサクラという品種で、愛媛県の明正寺から移されたとされる。花は少し大きめで、桜には珍しく強い香りを放っていた。この桜を楽しんだ後、善通寺を出たところにある讃岐うどん屋さんでお昼ご飯に讃岐うどんをいただき、瀬戸大橋を通って帰途に就いた。
 瀬戸大橋はしまなみ海道に比べてかなり大きいという印象を受けたが、これは自動車道と鉄道路の両方を通している併用橋であるためであった。この巨大な併用橋についてWikipediaは次のように言う。
 「瀬戸大橋(せとおおはし)は、瀬戸内海を跨いで本州(岡山県倉敷市)と四国(香川県坂出市)を結ぶ10の橋の総称であり、本州四国連絡橋のひとつ。1978年の着工から9年6ヶ月を経て1988年4月10日供用開始され、総事業費はおよそ1兆1338億円である。橋梁上部構造部分は、上部に4車線の瀬戸中央自動車道が走り、下部にJR本四備讃線(愛称:瀬戸大橋線)が通る2階建ての構造であり、用途が2通りあることから「鉄道道路併用橋」と呼ばれている。塩飽諸島の5つの島の間に架かる6つの橋梁と、それらを結ぶ高架橋により構成されており、橋梁部9,368 m、高架部を含めると13.1kmの延長を持つ。これは鉄道道路併用橋としては世界最長で、人工衛星写真でも確認できる。橋梁は吊り橋・斜張橋・トラス橋の3種類を併設。
 工事の際には世界初の技術が導入され、「海底無線発破」「設置ケーソン工法」などが実用化された。また、気象条件や荷重による変形が著しい、この規模の吊り橋への鉄道の敷設も世界初の事例であり、橋梁の変形から線路を保護するための技術が新規に開発された。橋上部構造は上部が4車線の道路(瀬戸中央自動車道)、下部が鉄道(JR四国本四備讃線(瀬戸大橋線))の2層構造となっている。下部の鉄道は新幹線・在来線合わせて4線を敷設できるようになっているが、現在は在来線用に2線分しか使われていない。なお現在は暫定的に新幹線側、在来線側のそれぞれ中央寄りに1本ずつ引かれる形で、中央部に2線が敷設されている。
 計画中の四国横断新幹線が建設される際は2線増設され、東側2線を在来線に、西側2線を同新幹線として使用する計画である。設計最高速度は上部の道路が100km/h(第1種第2級)、下部の鉄道が在来線部120km/h、新幹線部160km/h。今のところ新幹線用のスペースの殆どは何も設置されていないが、一部スペースに建設当初想定されていた新幹線用設備分の死重が設置されている。」
 私は、名前は忘れたが瀬戸大橋の途中にある大きなサービスエリアに入り、撮った写真が4枚目と5枚目である。4枚目の下部分には、この巨大な橋を支えているケーブルの断面が展示されていた。その巨大さが分かろうというものである。さらに5枚目の上の写真には、よく見ていただければわかりと思うが、大橋の下の道路部分を特急列車がたまたま走っている写真である。その下は瀬戸内海を走っている巨大な貨物船の写真である。このように本州と四国を結ぶ3本の大橋は、自動車道、鉄道路、そして海上交通を維持するために様々な工夫をしながら作り上げられてものと理解できるが、そのためにまた巨費を投じることになったと思われる。はたしてそれが四国、そして本州側の大きな利益になったかどうかは歴史的判断となるのであろうか。しかしそれがどうあれ、北海道や九州の場合を考えるとこうなるのは歴史の必然なのであろう。あとはこれをいかに生かすかである。四国の多くの地域が、私が今治で感じたような状況に変わっていかないことを祈りたい。

[簡易復元] 2010年3月、しまなみ海道を行く(2)尾道を経て「しまなみ海道」を通り今治へ

  • 2011/11/09 11:02

 鞆の浦を後にして一路尾道へ走り、見晴らしの良い千光寺公園に向かった。そこからの向島方面の眺めは抜群で、尾道市が広島県東部(備後地方)で福山市と並ぶ大きな都市で、また海運都市であると共に工業都市でもあることがよくわかる(1枚目の写真)。一方、尾道は後ろは山で前は海という平地の少ないことで知られ、坂の多い街として知られてきた。さらに古い街並みがそのまま残されているところも多いためか、「『坂の街』『文学の街』『映画の街』として全国的に有名である。文学では林芙美子、志賀直哉などが居を構え、尾道を舞台とした作品を発表した。映画では小津安二郎監督の『東京物語』が尾道で撮影され、大林宣彦監督の『転校生』『時をかける少女』『さびしんぼう』は『尾道三部作』として、若い世代にこの町を有名にした。」(Wikipedia)、とある。
 ただ、今回は先を急いだために尾道については千光寺公園を訪れるにとどめた。この公園には多くの観光客が詰めかけており、尾道の人気の高さを実感した。1枚目の写真の上部分で分かるように山と海岸の間はごく狭いため坂の多い街になるのであろう。また写真でもわかるように、新尾道大橋の向こう側の海岸沿いには多くのクレーンが立ち並んでおり、コンテナ関係か生産活動かは不明だが活発な動きが見られる。
 その新尾道大橋を通って「しまなみ海道」に入るために早々に千光寺公園を離れてしまなみ海道に向かった。しまなみ海道は6つの島を10本の橋梁(新尾道大橋を入れると11本)で結んでいる本州四国連絡道路で道路名としては西瀬戸自動車道路(別名 しまなみ海道)である。総延長59.4キロで尾道と今治を結んでいる。途中、どの島だったか忘れてしまったが、サービスエリアに入って撮った写真が1枚目の下部分である。穏やかな天候だったことがよくわかる。
 快適にしまなみ海道を通って夕刻に今治に到着した。ホテルが駅前の便利の良いところにあるのだが、土曜日の夜にもかかわらずやけに静かで少し拍子抜けしたことを覚えている。夕食の場所もそれほどなかったが居酒屋を探し当て、そこで食事をしてホテルに帰り旅の疲れを取った。翌朝早く目が覚めたので8時ころ駅前に出たが相変わらず静かだった(2枚目の写真上部)。朝食をとってから歩いて10分ちょっとのところの大きな商店街で朝市があるというのででかけた。その途中、駅前の大通りを市役所方面に歩いた直線道路の端から撮った写真が、2枚目の写真下部で、ほとんど人っ子一人通らなかったのである。季節は春、日曜日の朝である。
 そこからさらに歩いて大きな商店街に入った。かなり奥まったところで朝市が開かれていたが、広い通りにぽつぽつとお店があるという感じで、朝市の元気な話し声が聞こえてきた訳ではなかった。全く静かなのである(3枚目上部、下は今治城)。私たちはそこで店を出していたおじさんおばさんにいろいろなことを聞いた。聞くところによると、今治はしまなみ海道開通で期待通りの活性化は果たせなかったようである。その理由は、それまでは四国西部の物流は海上交通によって支えられていたし、人の流れも今治港を通して本州とつながっていたが、しまなみ海道の開通によって今治は人とモノの流れの通過地点になってしまったというのである。それは非常に分かりやすい説明で、私はそれに全く同意してしまった。大掛かりな投資を伴う工事によって一時的に賑わったとしても、結局それを維持することはそう容易なことではないのである。私は貴重な話を聞かせていただき、美味しい果物と花の苗を買ってホテルに戻った。その途中に見た今治駅前の標語「きらめいて海峡(うみ) 輝いて橋 今治」と現実との乖離が大きなショックであった(2枚目の上の部分)。
 でも、今治市役所の壁に掲げられた大きな垂れ幕、それは今治で見た一番明るいニュースであった(4枚目の写真)。強豪今治西高の選抜野球大会出場であった。この状況の中で是非勝ってもらいたかったが、残念ながら勝ち進むことはできなかった。最後に今治城を横目で見て、今治を一番有名にしている今治タオル展示場のある「テクノポート今治」に向かった。そこには今治におけるタオル生産の詳しい歴史(5枚目の写真上部)と様々な機械が展示されており(同下部)、いろいろと勉強させていただいた。また、多くのタオル生産会社の製品が展示即売されており、私も珍しくタオル地の明るいグリーンのマフラーを手に入れ、気持ちよく使わせていただいている。
 今回の旅で、地方における景気の落ち込みというか元気の無さが予想外に厳しいことを、今更ながら身にしみて感じることとなった。なお、いつものことながら、写真はクリックで拡大できます。

[簡易復元] 2010年3月、しまなみ海道を行く(1)鞆の浦

  • 2011/11/08 13:27

(この記事のオリジナルは2010年3月に書かれたが、ファイルが失われたため写真も新しくして新たに書き直す)

 これまで一度も「しまなみ海道」を走ったことがなく、また私が四国には疎いこともあって車でしまなみ海道から四国へ、そして四国北部を走って瀬戸大橋から戻るという1泊2日のちょっと強行日程の旅に出かけた。朝早く自宅を出て中国道と山陽道を乗り継いで最初の目的地の鞆の浦に着いたのは丁度昼ごろでした。「龍馬伝」や「崖の上のポニョ」の影響もあってか、海沿いの道を多くの観光客が歩き始めていた。鞆の浦とは一般にどんなところかについてWikipediaは次のように言う。
 「鞆の浦(とものうら)は、広島県福山市鞆町の沼隈半島南端にある港湾およびその周辺海域。現在は鞆港の港周辺の市街を含めた範囲も「鞆の浦」と呼ぶことも多いが、本来「鞆の浦」とは「鞆にある入り江」という意味であり鞆港を中心とした海域のことである。沿岸部と沖の島々一帯は「鞆公園」として国の名勝及び国立公園に指定されている。
 鞆の浦周辺は1925年に名勝・鞆公園の指定を受け、さらに1931年に制定された国立公園法において国立公園として最初に指定された地区のひとつである(瀬戸内海国立公園)。そのため1934年の国立公園指定当時の記念切手や絵葉書には鞆の風景が描かれているものがある。 なお鞆の浦に含まれる島には仙酔島、つつじ島、皇后島、弁天島、玉津島、津軽島がある。
 瀬戸内海の海流は満潮時に豊後水道や紀伊水道から瀬戸内海に流れ込み瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦沖でぶつかり、逆に干潮時には鞆の浦沖を境にして東西に分かれて流れ出してゆく。つまり鞆の浦を境にして潮の流れが逆転する。「地乗り」と呼ばれる陸地を目印とした沿岸航海が主流の時代に、沼隈半島沖の瀬戸内海を横断するには鞆の浦で潮流が変わるのを待たなければならなかった。このような地理的条件から大伴旅人などによる万葉集に詠まれるように、古代より潮待ちの港と知られていた。また、鞆は魏志倭人伝に書かれる「投馬国」の推定地のひとつともなっている。
 鞆の浦の港町である鞆には古い町並みが残り、1992年には都市景観100選に、2007年には美しい日本の歴史的風土100選にも選ばれた。江戸時代の港湾施設である「常夜燈」、「雁木」、「波止場」、「焚場」、「船番所」が全て揃って残っているのは全国でも鞆港のみである。」
 ここに書かれているように鞆の浦は潮待ちの港としての海上交通の要所としての利点と、風光明美な場所であるという生活の場あるいは観光の場としての利点を兼ね備えていた。そのために歴史的に見ても上に出ている大伴家持が歌うように多くの有名な歴史上の人物が鞆の浦に集まったようで、足利尊氏もその一人のようである。したがってこの地は漁港としての機能(5枚目の写真)と港としての整備も行われていたようで、それが常夜灯の建設にも見られる(2枚目の写真上部)。また、この町は半島の先端に築かれており、したがって町は起伏に富んでおり、しかも狭い道を挟んで家が所狭しと立ち並んでいた(1枚目の写真下部)。
 この鞆の浦をさらに有名にした事件は、坂本龍馬の海援隊が伊予国大洲藩から借り受けていた蒸気船「いろは丸」が、紀州藩所属の軍艦蒸気船「明光丸」と衝突し、鞆港に曳航中に沈没し、龍馬をはじめとする海援隊士が鞆の浦に上陸した事件である。直ちに賠償交渉が行われたが決着せず、長崎奉行所で交渉が続けられ、万国公法を持ち出した龍馬側が紀州藩の譲歩を引き出し、賠償金8万3526両198文を支払う事で決着した。8万3526両198文は約25億円から約42億円に当たる。ただし、後にこれは7万両に減額され、さらに、最近の調査によれば、交渉の過程で龍馬が船に積んでいたと主張した銃器などは発見されなかったという。彼と後藤象二郎はなかなかの交渉術を駆使したようである。
 そんなわけで、それに関する家屋などが残されており(2枚目下)、さらに2枚目上の写真の常夜灯の右側に見えるのは「いろは丸展示館」で、そこには龍馬といろは丸の様々な資料が展示されている。それにしても、3枚目の写真の下部分に見られるごとく、海援隊は英語などを必死に勉強していたようで、その意欲に驚かされる。
 初めのところに書いたように、鞆の浦は潮待ちの港であり、海上交通の中継点であった。江戸時代には「朝鮮通信使」が何度となく鞆の浦に立ちよっておりその資料も多く残されている。その写真が4枚目の左部分で、右部分は当地の旧家に多く残されている豪華なお雛様で、2-3月にはそれぞれの家に展示されて観光客を楽しませている。

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