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[簡易復元] 2011年3月、南紀白浜を訪ねる(4)一瞬 堺市を見る

  • 2011/11/07 11:26

 南紀白浜からの帰途、記憶にないほどの昔訪れただけでイメージの湧きにくい堺市に立ち寄ることにした。とにかく、唯一頭に浮かぶ仁徳天皇陵に行こうと高速道路を降りて街を走ったが、走り方の難しい街だということを実感した。きっとそれは古くから発展した地域だからだろうと推測した。ブログを書くためにいろいろなものを読み漁ると、大体次のようになる。
 この地域には旧石器時代から人が住み始めたようで、旧石器時代の打製石器や縄文時代の土器・石器、弥生時代の銅鐸・土器などが発掘されているらしい。古墳時代、ヤマト王権成立後は大仙陵古墳(仁徳天皇陵)など大小100数基の百舌鳥古墳群が造られた。なぜこの地域にそれだけの古墳群が成立したかについては、それはヤマト王権が初期の奈良東南部から大和川流域に広がったことと関連があるとも言われる。その後飛鳥時代の道路網整備につれて、街道沿いに河内鋳物師と呼ばれる人々が住み着き、東大寺再興や鎌倉大仏の鋳造に活躍したらしい。
 平安時代以降は、熊野詣での宿場町として、あるいは発展した京都や奈良の入り口として、さらに東南アジアや中国との貿易(日明貿易)によって大きく発展し、その結果自治能力を備えた都市として力を蓄えるに至った。しかし、後に織田信長や豊臣秀吉に屈服し、大阪城建設後はその城下町に堺商人の多くが移動を余儀なくされて衰退するが、後に鋳造技術が生かされて鉄砲生産などで栄えることとなった。もちろん、このころ今井宗久や千利休などによる茶の湯もそれに拍車をかけたのであろう。
 このようにして蓄えられた堺商人の財力は莫大であったようで、当時の多くの海岸の中小都市に莫大な投資をしたようで、その影響は大阪、名古屋、東京に及んだという。その後醸造業、紡績、レンガ産業などで大いに発展し、阪神工業地帯の大きな部分を占めるようになった。なお、当初から関西への海の玄関口として発展した堺がその地位を神戸に譲り渡した理由は、幕末欧米列強による大阪港開港の要求に対し、幕府は京都への近さから堺を候補に挙げたが、幕府内の勤皇派は堺の古墳を外国に荒らされるのを嫌がり、神戸に決まったといういきさつがあるようである。
 こんな勉強をしたからといって堺市内での動きにくさが分かるわけではないが、取りあえず今回はこの程度にして、仁徳天皇陵のことを少し書きたい。この前方後円墳は墳長がおよそ486メートルと日本最長で、幅305メートルと日本最大の古墳である。しかしこれば仁徳天皇陵であるとの確定は宮内庁が発掘を認めないなどで不可能であり、また異論もあることなどから「大仙陵古墳」(大仙とは町名)と呼ぶのが最も妥当なようでもある。
 1枚目の写真はこの古墳の前方部に設けられている拝所である。その前に二人のボランティアの説明人がいるが、その方に根掘り葉掘りいろいろと聞いてみると、豊臣秀吉はこの古墳でしばしば狩りをおこなっていたと伝えられ、また後円部を除けば幕末までは誰でもこの古墳に立ち入ることが出来たようである。しかし、江戸時代になると尊王思想の高揚に合わせてかなりの整備や管理強化が始まったと伝えられているらしい。拝所もそのようにして設置され、現在につながっているようで、時代の影響を受け続けたわけで、いまのような古墳の形式が当初からそうであったかどうかはいささか疑問ではある。
 この大仙陵古墳を離れて、すぐそばにある堺市博物館にいったところたまたまそこで開催されていた「アルフォンス・ミュシャ展」の看板のデザインがどこかで見たことがあるような感じだったので入ることにした(5枚目の写真)。それについては最後に触れるとして、博物館を離れて最も眺望がよいと教えられた市役所に向かうことにした。その市役所の駐車場探しもやはり難航した。
 その市役所の21階には抜群の展望台があった。地上80メートルで展望台は回廊式で360度見渡せ、喫茶店もあるなかなかの展望台であった。あいにく夕方に差しかかって港の方は逆光にあり、また大阪の方は少しかすんでいて見にくかったが絶好の眺望であった。まともな写真はないが、そこから撮った写真が2枚目の大仙陵古墳、3枚目は逆光にかすむ港地区である。港の方は煙が立ち上り阪神工業地帯の一角を占める雰囲気であった。また、北を向けば4枚目の写真のように高層ビル群が見え、やはり堺は大阪市に隣接していると実感させた。堺とは、古墳時代の面影を残す古墳群の街でありながら、巨大都市大阪の一角でもある、そんなところだったのである。
 最後に、アルフォンス・ミュシュのことを少しだけ書いておきたい。Wikipediaは次のように言う。「アルフォンス・マリア・ミュシャ(Alfons Maria Mucha, アルフォンス・マリア・ムハ、1860年7月24日 - 1939年7月14日)は、アール・ヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナー。(…中略…)
 多くのポスター、装飾パネル、カレンダー等を制作した。ミュシャの作品は星、宝石、花などの様々な概念を女性の姿を用いて表現するスタイルと、華麗な曲線を多用したデザインが特徴である。イラストレーションとデザインの代表作として『ジスモンダ』『黄道12宮』『4芸術』などが、絵画の代表作として20枚から成る連作『スラヴ叙事詩』が挙げられる。」
 彼のポスターとは5枚目の写真に見られるようなポスターである、と言えば誰しもどこかで見た感じがすると思う。このようなポスターの起源はアルフォンス・ミュシャであると言って過言ではない。これが今回の展示から受けた印象である。幸いなことにこの貴重なポスターの原画の多くは堺市が所有しているコレクションである。その訳は、「よく知られた「カメラのドイ」の創始者である土居君雄氏が、ミュシャの知名度がさほど無かった頃から個人的に気に入り、本業の商品の買い付けや商談の為に渡欧する度に買い集めた。また、ミュシャ子息のジリ・ミュシャとも親交を結び、彼の仲介によってコレクションの中核が築かれた。1989年には、土居にチェコ文化交流最高勲章が授与されている。土居が1990年に他界すると遺族は相続放棄 し、1993年、土居夫妻が新婚時代に居住したことのある堺市に寄贈された」(Wikipedia)。このコレクションの一部は堺市立文化館アルフォンス・ミュシャ館において展示されているので、堺市にお出かけの説は是非ご覧いただきたい。私はそう言うのも、素人目に見ても素晴らしいからである。

『ワシントン・ナショナル・ギャラリー展』を楽しむ

  • 2011/11/06 10:14

 11月初めのウィークデー、京都市美術館に「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」を観ようと友人ともども訪れた。ウィークデーであろうと京都は多くの人でにぎわっているのが普通で、美術館も同様であった。それでも週末の混雑に比べればましで、まあゆったりと楽しむことが出来た。この「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」とはなにか、また今回の展示の見どころはなにかについては主催者側の次の説明を聞こう。
 「12世紀から現代までの世界有数の西洋美術コレクションで知られるこの美術館は、一人の男の壮大な夢と情熱で創設されました。
その男の名はアンドリュー・メロン。19世紀末から20世紀にかけて銀行家、実業家としてアメリカ屈指の財を築き、1890年代末にはジョン・ロックフェラー、ヘンリー・フォードらと並んでアメリカ合衆国を代表する大富豪となった人物です。(…中略…)
 その後も氏の志に賛同する人々が作品の寄贈を続け、今日に至るまで同館の所蔵品約12万点はすべて一般市民による国への寄贈で成り立っています。寄贈は美術品そのものであったり、美術品を購入するための資金であったりしますが、それはまさに、「アメリカ市民が創った奇跡のコレクション」と言えるでしょう。
 本展では、ワシントン・ナショナル・ギャラリーの所蔵作品の中でも特に質が高いことで知られる印象派とポスト印象派の作品から、日本初公開作品約50点を含む全83点を展示します。出品作品の約半数は、創設者アンドリュー・メロンの遺志を受け継いだ娘のエルサ・メロン・ブルースと、息子ポール・メロンのコレクションに帰属するもので、同美術館の心臓部ともいえるこれらの作品が、これほどの点数でまとまって館を離れるのは極めて稀なことです。
(…中略…)ワシントン・ナショナル・ギャラリーが所蔵する12万点の作品の中でも、特に質の高さと絶大な人気を誇るのが、その数およそ400点の印象派とポスト印象派の作品群です。本展では、その中から日本初公開作品約50点を含む、全83点を紹介します。
 クールベやコローらバルビゾン派や写実主義を導入部とし、印象派の先駆者といわれるブーダンやマネを経て、モネ、ルノワール、ピサロ、ドガ、カサットら印象派に至り、セザンヌ、ファン・ゴッホ、ゴーギャン、スーラなど、それぞれの表現によって印象派を乗り越えていったポスト印象派に続きます。17年ぶりに来日するエドゥアール・マネの《鉄道》、日本初公開のフィンセント・ファン・ゴッホの《自画像》、ポール・セザンヌの《赤いチョッキの少年》、そして同じくセザンヌが父を描いた初期の名作《『レヴェヌマン』紙を読む父》など、いずれもワシントン・ナショナル・ギャラリーの「顔」、美術史において印象派、ポスト印象派を語る上で欠かせない名作の数々です。まさに、「これを見ずに、印象派は語れない。」(http://www.ntv.co.jp/washington/exhibition/04.html )。
 少し長くなったが説明文を引用した。貴重な財産であることはよくわかるし、沢山の絵を観せてもらってその素晴らしさは言葉通りだと受け取れた。日本人は印象派好きと言われているが私もそうである。その理由はよくわからないが、西欧特にヨーロッパの絵画は元来宗教画が全盛で、宗教に依存した内容の絵画が大半であったように思う。そしてそれは、当然のように私たちが日常生活で見聞きするものとは圧倒的な隔たりがあり、それが私たちには違和感として感じられるのであろうか。
 この展覧会では、その後の、しかし印象派と呼ばれる直前の絵がかなり展示されていた。それらの絵は新たに対象として身近な風景や人物像、なにげない人の動き、あるいはお皿に乗っている牡蠣など、それまでにはなかったようなものが画題として選ばれているという意味で、私には新鮮であった。ただ、まだ重苦しい感じは否めなかったような気がした。しかし、それが印象派の作品と定義されるようになってくると、描く対象が全く日常となり、チョットした表情の変化をも描く者の興味の対象になっていく。また、色使いも私にも一気に明るく、光り輝く、明快になっていることが分かるように感じられた。
 その印象派の巨匠たちのドガ、モネ、ルノワールなどの絵はそれぞれどこかで観たことがあり驚かなかったけれど、後期印象派のセザンヌの「アントニー・ヴァラブレーダ」の直線的な輪郭で、分厚く塗った黒の色調には圧倒される感じだったし、「『レヴェヌマン』紙を読む画家の父」は凄く印象的だった。また、ロートレックの線で描いていた「アン・パサドゥールの粋な人々」には、画家は必死に何か新しいものを引き出そうとのた打ち回っていたんだと強く感じた。でも、最後の展示室で観たロートレックの「カルメン・ゴーダン」というごく小さな絵が私の興味を一番引いた絵であった。それに、ゴッホの白い「薔薇」もこれまでのゴッホの感じとちょっと異なり大好きな絵になった。
 1枚目の写真は、入場券にあるゴッホの「自画像」、2枚目はモネの「日傘の女性、モネ夫人と息子」、3枚目はルノワールの「カルメン・ゴーダン」(ちょっと色がうまく出ない)、4枚目はゴッホの「薔薇」(いずれも販売されていたハガキから)、そして5枚目は美術館と神宮道にある美味しい京うどんの店「京菜家」の前の友人である。

[簡易復元] 2010年11月 貴船と鞍馬を行く(1)貴船神社

  • 2011/11/05 09:52

(この記事のオリジナルは2010年11月に書かれたものであるが、ファイルが失われたため新たに書き直す)

 かってこの地域を訪れたことはあったが紅葉の季節ではなかったこともあり、今回は友人と一緒に紅葉を楽しもうとやってきた。鞍馬の方から貴船に歩いたほうが楽ではあるが、むしろ汗をかく方を選んだ。そこで京都・出町柳で叡山電鉄鞍馬線に乗り、貴船口で下車してバスに乗り5分、貴船神社の近くに到着した。貴船神社は水の神さんであるとは薄々知ってはいたが、詳しいことをWikipediaに訊いてみた。
 「貴船神社(きふねじんじゃ)は、京都府京都市左京区にある神社である。式内社(名神大)、二十二社の一社で、旧社格は官幣中社。日本全国に約450社ある貴船神社の総本社である。地域名の貴船「きぶね」とは違い、水の神様であることから「きふね」という。
貴船神社(きふねじんじゃ)は、京都府京都市左京区にある神社である。式内社(名神大)、二十二社の一社で、旧社格は官幣中社。日本全国に約450社ある貴船神社の総本社である。地域名の貴船「きぶね」とは違い、水の神様であることから「きふね」という。
 水神である高龗神(たかおかみのかみ)を祀り、古代の祈雨八十五座の一座とされるなど、古くから祈雨の神として信仰された。水の神様として、全国の料理・調理業や水を取扱う商売の人々から信仰を集めている。古来より、晴れを願うときには白馬が、雨を願うときには黒馬が奉納されたが、実際の馬に代わって木の板に描いた馬が奉納されたこともあり、このことから絵馬が発祥したとも言われる。
 また、縁結びの神としての信仰もあり、小説や漫画の陰陽師による人気もあり、若いカップルや女性で賑わっている。その一方で縁切りの神、呪咀神としても信仰されており、丑の刻(うしのこく、午前1時?、筆者注)参りでも有名である。ただし「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」に貴船明神が貴船山に降臨したとの由緒から、丑の刻に参拝して願いを掛けることは心願成就の方法であり、呪咀が本来の意味では無い。平安時代には丑の刻であるかどうかは不明だが貴船神社に夜に参拝することが行われていた。時代の変遷と共に本来の意味が変質したものと思われる。付近は京都でも有名な紅葉の名所のひとつである。」
 少しだけ雨が降ってはいたが傘を差すほどでもないしっとりとして天候で、なかなかいい感じだったがちょっと暗いだけが難点であった。そんな中、紅葉の落ち葉を掃いている割烹着姿の料理屋の女性の姿はなかなか絵になる風景である(1枚目の写真)。ゆるい傾斜の石段(2枚目の写真)を登ってゆくとすぐに貴船神社である。お参りをして周りを見渡すと本殿の脇、それから貴船川を挟んで前に広がる鞍馬山、ともに優しい色の紅葉に満ちていた(写真3、4、5枚目)。
 貴船神社の雰囲気を楽しんだ後、貴船川を渡って鞍馬寺西口から鞍馬山に入っておよそ1.5キロほど先の鞍馬寺を目指した。その途中の小さな看板を写したのが5枚目の下部分である。この山の道は,
看板の後ろに少しは見えるが、至る所木の根が道にむき出しになっている。看板の説明を見ると、この山は砂岩、それが固まって剥がれ易くなっている頁岩が露出していて木の根が地中にもぐりにくくなっているためだと考えられているようである。さらには、砂岩、頁岩が剥がれ易くてより根がむき出しになるような気がする。そんな勉強もしながら鞍馬寺に向かった。

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