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[簡易復元] 2011 高槻シティ国際ハーフマラソンに『てっぱん』の人気者が登場!

  • 2011/10/29 17:46

(この記事のオリジナルは2011年1月に書かれたのであるが、ファイルが失われたため、新たに書き直す)

 1996年1月21日、初めてハーフマラソンを走ったのはこの高槻ハーフであった。それ以来毎年当たり前のようにエントリーして楽しませてもらってはきたが、2010年11月持病になりつつあった「発作性上室性頻拍」を、大阪大学病院でカテーテル手術に踏み切ったこともあり(http://www.unique-runner.com/catheter1.com )、今回のレースへのエントリーは取りやめることとした。しかし、ジムでのトレーニング仲間が5名参加したので、その応援がてらカメラマンとして参加した。
 一方、2009年秋から始まっていたNHK連続テレビ小説「てっぱん」が終盤を迎え、ヒロイン村上あかりの恋人?「駅伝君」の滝沢薫君がマラソンに挑戦することになった。そのマラソンの撮影舞台が、なんと高槻ハーフだったのには驚いた。そのため長田成哉君と瀧本美織さんが会場の高槻スポーツセンターの陸上競技場に現れ、ゲストランナーがあの高い声で叫ぶ千葉真子さんだったこともあってか、普段以上の大賑わいであった。この2人が千葉ちゃんとともに開会式に登場し、会場はヒートアップ。
 それを見届けて、私は撮影場所に選んだ10キロ地点に自転車で向かった。その場での撮影を終わって再び、スタート地点に戻り、ゴール前での仲間たちの苦しい表情を追った。写真を紹介しよう。1枚目の写真は壇上に上がった長田君ともちろん千葉ちゃんで、2枚目はゲスト席に座っている千葉ちゃん、長田君そして瀧本さんである。3枚目から5枚目は仲間たちの10キロ地点とゴール地点での写真で、タイムはそれぞれであるが全員無事完走してばんざ~い、めでたしめでたしで終了した。

[簡易復元] 2009年夏 東北3泊4日の旅(4)山形・山寺から宮城・松島へ

  • 2011/10/29 09:00

 中尊寺を離れて最後に一泊する松島に向かうべきかかなり迷ったが、結局思い切って東北道を下って山形自動車道に入り、「山寺」に向かうことになった。思い切ってというのは、確か150キロ以上はあったからである。でも、行ってよかったというのが本音で、芭蕉のあの有名な句にも出会えたからである。では、山寺とはどんなお寺なのか、いつものようにWikipediaに聞いてみた。その答えは、
 「立石寺(りっしゃくじ)は、山形県山形市にある天台宗の寺院。山号は宝珠山。本尊は薬師如来。寺号は詳しくは宝珠山阿所川院立石寺(ほうじゅさんあそかわいんりっしゃくじ)と称する。山寺(やまでら)の通称で知られ、古来より悪縁切り寺として信仰を集める。寺名は古くは「りうしゃくじ」と称した。蔵王国定公園に指定されている。立石寺の創建について、寺伝では貞観2年(860年)に清和天皇の勅命で円仁(慈覚大師)が開山したとされている。当寺の創建が平安時代初期(9世紀)にさかのぼることと、円仁との関係が深い寺院であることは確かであるが、創建の正確な時期や事情については諸説あり、草創の時期は貞観2年よりもさらにさかのぼるものと推定される。(…中略…)
 鎌倉時代には幕府の保護と統制を受け、関東御祈祷所となり寺は栄えたが後に兵火により焼失し、13世紀中頃には幕府の政策により禅宗に改宗となったが、延文元年(正平11年・1356年)斯波兼頼が羽州探題として山形に入部した後、兼頼により再建され天台宗に戻った。大永元年(1521年)、寺は天童頼長の兵火を受けて一山焼失した。天童頼長は斯波兼頼の孫の斯波(天童)頼直を祖とする天童家の末裔である。永正17年(1520年)、頼長は山形盆地に進出した伊達稙宗と戦うが、この際立石寺が伊達側に加勢したために、頼長の怒りを買い、翌年焼き討ちを受けたものである。なお、現存する立石寺中堂は後世の改造が多いものの室町時代中期の建物とされている。焼き討ちの際に、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消滅し、再度、分燈することとなるが、元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ち後の再建時には、立石寺側から逆に分燈されることとなった。(…中略…)
 元禄2年(1689年)に松尾芭蕉が旅の途中で訪れ、その時のことが『おくのほそ道』に書かれている。また、当地で名句「閑さや 巖にしみ入る 蝉の声」を詠んでおり、参道に句碑がある。」
 私はこの俳句に思い入れがある。いまでも覚えているが、中学生の時に国語の時間に先生にあてられ、この句の説明というか感想を求められたときに、この騒々しい蝉の声がかえってこの山の静寂さを示している、というようなことを答えた。その答えに今でも納得している。というのは、それほど私の田舎も蝉の声が周りにしみ込んでしまいそうな雰囲気であったからである(2枚目の組み写真)。でも、ひとつ疑問がある。あの句は、“しずかさや・・・”なのであろうか、あるいは“しずけさや・・・”なのであろうか、それについての興味深い議論はネットにもあった(http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3673369.html )。
 山すそにある立石寺本堂(根本中堂、1枚目の組み写真の上部分)からほぼ一番高いところにある大仏殿までほとんど垂直と思われるほど急峻な山で、20-30分はかかったであろうか。多くのお寺もそうであるが、よくぞこんなところに寺を作るもんだと感心するが、民を救うという情熱が何度も兵火によって失われようともそれを支えているのであろうか。そこを一番知りたいような気がする。ほぼ一番高いところにあると思われ、眺望一番の五大堂?から眺めた写真が1枚目組み写真の下部分である。下に見えるのは門前町とJR仙山線の山寺駅である。
 山寺を出て最後の宿泊地の松島に向かい、途中塩釜で美味しいお寿司をいただいて松島に到着した。翌朝早く、松島の幻想的な景色(3枚目の組み写真上部)を楽しんだ後、松島湾のクルーズに出かけた。その組み写真の下部分は船から宿泊した高台にあるホテル方向を見たものである。このブログの書き直しをしようと思っていた昨夜(2011年10月28日夜)、偶然NHKBS3の「新日本風土記}で松島のことを放映していたのを見た。それによれば、松島には湾内外に260余りの島があり、新しい考え方によれば、湾はその海岸べりの大規模な地滑りとその後の浸食によって作り上げられたとのことらしい。まだ証明されたわけではないが、興味深い考え方で、湾の浅さも考えやすいという。
 その番組によれば、この島々には縄文時代から多くの人が住みついていたようで、多くの貝塚には人骨も埋葬された形で発掘されているらしい。また、それらの島々は宗教的な意味を持っていたようで、島での生活は極楽浄土への道として存在していたようである。中尊寺も毛越寺もそしてこの松島でも極楽浄土という言葉をよく聞く。この地に特徴的なことなのであろうか。この松島がそのような場所であるのなら、もっと違った松島観光の仕方があるような気がする。4枚目の組み写真は、クルーズの時に子供が鳥に餌をあげているときの写真である。なぜか、美しい島々の写真は、見とれているうちに通り過ぎてしまって撮影できなかった。
 最後の写真は、今回の大震災を含めてこれまでの大規模地震や津波において、前面に位置する松島の数々の島々に守られてきた瑞巌寺の写真であるが、本堂ではない。特徴的な屋根を持つ庫裏で国宝である。訪れたときは本堂は大規模改修中であった。このお寺は臨済宗妙心寺派のお寺で伊達正宗の菩提寺でもあり、この地方の精神的支柱のようでもある。このお寺も含めた松島をまた訪れてみたいし、東日本大震災のことも現地で考えてみたい思いである。その時にもっと詳しくこの地域のことを記そう。
 この松島訪問を最後に3泊4日の東北の旅を終わり、26日仙台空港から帰阪した。

[簡易復元] 2009年夏 東北3泊4日の旅(3)毛越寺と中尊寺の平泉へ

  • 2011/10/28 21:27

 特別史跡・特別名勝である毛越寺と同じく特別史跡である中尊寺のある平泉を訪れた。毛越寺のホームページによれば、毛越寺について次のように言う。「毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡(もとひら)から三代秀衡(ひでひら)の時代に多くの伽藍が造営されました。往時には堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失したが、現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けています。平成元年、平安様式の新本堂が建立されました。」とある。
 毛越寺で特に有名なのはその庭園で、ホームページによれば「仏の世界すなわち浄土を地上に表現したと伝わる浄土庭園・・・。大泉が池は浄水をたたえ、その周辺には、州浜、荒磯風の水分け、浪返しにあたる立石、橋のたもとをかざる橋引石、枯山水風の築山、遺水などの石組を配し、この景観は平安時代に書かれた日本最古の庭園書である作庭記に基づいて作られてた学術的にも貴重な庭園です。800有余年を経た現在も、四囲の樹木の景観と相まって、なお変わらぬ美しさを見せています。」と書かれている。
 その庭園は、本当に、私どもではとても言葉に表せぬほどの美しさである。それはけばけばしく美しいのでもなく、華麗に美しいのでもなく、控えめに美しいというのでもなく、それはただただ美しいのである。1枚目の写真は毛越寺の入り口、2枚目はから4枚目までは言葉では説明できない庭園の美しさを表す写真である。
 この美しい庭園からそれほど遠くないところに中尊寺はある。毛越寺は平地にあるが、中尊寺は小高い山の中をゆっくりと登ってゆくとひっそりと建っているお寺がある。中尊寺はけばけばしいお寺でもなく、古びた普通のお寺のように見えた。しかし、その来歴は悲惨を極めたすさんだ戦乱からの復興、さらに極楽浄土の世界を目指したものだと言われる。それが中尊寺から少し奥に建てられている金色堂であろう。そのことについてWikipediaは次のように言う。かなり長いが引用したい。
 「中尊寺(ちゅうそんじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院。奥州三十三観音番外札所。山号は関山(かんざん)、本尊は阿弥陀如来。寺伝では円仁(慈覚大師)の開山とされる。実質的な開基は藤原清衡。奥州藤原氏三代ゆかりの寺として著名であり、平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂(こんじきどう)を始め、多くの文化財を有する。1979年(昭和54年)5月22日、『中尊寺境内』として国の特別史跡に指定された。
 2001年(平成13年)に世界遺産登録の前提となる暫定リストに「平泉の文化遺産」の一部として記載されたが、2008年(平成20年)の第32回世界遺産委員会の審議では、登録延期が決定した。文化庁・岩手県では、ユネスコへの再度の申請を行い、2011年(平成23年)5月に国際記念物遺跡会議が世界遺産への登録を勧告、同年6月に世界文化遺産に登録された。
 奥州藤原氏の初代、藤原清衡は前九年の役のさなかの天喜4年(1056年)に生まれた。清衡の家系は藤原秀郷の流れを汲むという。清衡が7歳の時、彼の父藤原経清は、安倍氏に味方したかどで斬殺された。清衡の母は安倍氏の出であったが、夫経清が殺害された後、安倍氏とは敵対関係にあった清原家の清原武貞と再婚。清衡は清原武貞の養子として『清原清衡』を名乗ることになる。つまり、清衡は前九年の役で滅亡した安倍氏の血を引くとともに、後三年の役で滅びた清原家の養子でもあった。清衡の兄弟には兄・真衡(清原武貞と先妻の子)と、弟・家衡(清衡の母と清原武貞の間に生まれた子)がいた。真衡は弟の清衡・家衡とは対立していた。真衡の死後、彼が支配していた奥州の奥六郡[2]は、清衡と異父弟・家衡に3郡ずつ与えられたが、これが元となって今度は清衡と家衡の間に争いが生じた。清衡は源義家の助力を得て戦いに勝利し、清原氏は滅亡した。この一連の内紛を『後三年の役』と称する。この合戦のさなか、清衡は館に火を放たれ、妻と子を失っている。その後、清衡は現在の岩手県にほぼ相当する奥州奥六郡を支配下に収め、父の姓である「藤原」を名乗って『藤原清衡』と称するようになる。清衡は寛治3年(1089年)には陸奥押領使に任命され、嘉保4年(1094年)頃には居館を江刺郡豊田館(とよたのたち、奥州市)から、中尊寺のある平泉に移している。このように、藤原清衡の前半生は兄弟・親族が相争うもので、多くの近親者の死を目の当たりにしてきた。壮年以降の清衡が平泉の地に、都の大寺院にも劣らぬ仏堂を造立したのは、その莫大な経済力の背景があったこととともに、戦いに明け暮れた前半生を省み、戦没者の追善とともに、造寺造仏、写経の功徳により、自己の極楽往生を願ってのことであったと推測されている。(…中略…)
 平泉では、奥州藤原氏4代(清衡、基衡、秀衡、泰衡)約100年にわたって王朝風の華やかな文化が栄え、毛越寺(もうつうじ、基衡建立)、観自在王院(基衡夫人建立)、無量光院(秀衡建立)などの寺院が建立されたが、当時の面影をとどめるのは中尊寺金色堂、毛越寺庭園と、紺紙金銀字経などのわずかな遺品のみである。(…中略…)
 1909年(明治42年)に本堂が再建。1950年(昭和25年)に金色堂須弥壇に800年もの間、安置されていた藤原四代の遺体に対する学術調査が実施された。この結果、中央壇に清衡、右壇(向かって左)に2代基衡、左壇(向かって右)に3代秀衡の遺体が安置され、右壇にはさらに4代泰衡の首級が納置されていることが判明した。1958年(昭和33年)には天台宗東北大本山の称号を許され天台宗総本山延暦寺より不滅の法灯を分火護持される。1962年(昭和37年)より金色堂の解体修理が行われ、6年後の1968年(昭和43年)に創建当時の輝きを戻すことになる。」
 要するに、それまでのすさんだ戦乱の世を悔い改め、極楽浄土を地上に実現するものとして中尊寺とその金色堂、毛越寺とその庭園が創造されたと考えられており、金色堂の美しさにはただ恐れ多いという感じがしたのを覚えている。そのためか、金色堂については一枚の写真も撮ることはなかった。ただ、荒れ果てた中尊寺を嘆き、金色堂の美しさに目を奪われた芭蕉の句碑の写真を一枚撮ったのみであった。最後の組み写真の上が中尊寺、下がその句碑である。

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