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「長野オリンピック記念長野マラソン」とは10年以上のお付き合いへ

  • 2011/10/21 22:20

(この記事のオリジナルは今年の3月に書いたものであるが、オリジナルが失われたので改めて書き直す)

 1996年1月21日、初めてマラソンと名のついたハーフマラソンを「高槻シティ国際ハーフマラソン」で走り、2時間3分3秒のタイムを刻んだ。それから3年後の1999年11月28日の「尼崎シティマラソン」(ハーフ)で初めて2時間を切って1時間57分18秒で走り、それ以来2002年1月20日の「高槻シティ国際ハーフマラソン」を1時間44分24秒で走るまで9回ハーフマラソンに参加し、ほぼコンスタントに1時間40分台の前半で走れるようになった。
 その年の4月13日、横浜での娘の結婚式後に長野に直行し、翌日の暑い4月14日、定年一年前の62歳で初めてフルマラソンである「長野オリンピック長野マラソン」に参加したのである。その大会は第4回の大会で、期待してはいたものの思わず“やったー!!!”と叫んだはずの3時間57分01秒のサブフォーで走りきったのである(http://www.unique-runner.com/nagano.htm )
。それが1枚目の写真で、長野スタジアムにゴールしてうれしい、しかし消耗した表情が読み取れる。
 それから10年間、組織と応援の素晴らしい長野マラソンへの参加を躊躇したことはなく、そこで鍛えられ、子供たちとも何度も楽しませてもらった(2枚目の写真)。2005年12月11日には思い切ってホノルルマラソンに参加することになった。なんの因果か、偶然長男と走ることになり、レースの前日カピオラニ公園で一緒にジョギングしている写真が3枚目の写真である。そしてリタイアするわけにいかない本番で、それまでの自己ベストを2分弱短縮して3時間51分45秒という思いがけないベストタイムを出すことが出来た。4枚目の写真は、そのゴール直前の写真を放映されたテレビ映像から取り出したものである(http://www.unique-runner.com/honolulu.htm )。
 丁度そのホノルルマラソンの少し前から発作性の頻拍に悩まされる苦しい時期が始まり、いくつかのハーフマラソンやフルマラソンでリタイアすることとなり、長野マラソンでもNHK長野放送局前で2度のリタイアを余儀なくされた。その頻拍を思い切って昨秋阪大附属病院でカテーテル手術によって完治させ、満を持して今年4月17日開催予定の長野マラソンへの参加を目指してトレーニングに励んでいた矢先の3月11日、東日本巨大地震が発生した。後にそれは「東日本大震災」と呼ばれるようになり、1200年に一度かという超巨大地震に福島第一原子力発電所の爆発・崩壊という未曾有の大災害に発展してしまったのである(このことについては後に最低限の記事の復元を目指している)。
 この事態に直面した長野マラソン組織委員会は3月23日付で参加予定者に手紙を送り、「第13回長野オリンピック記念長野マラソン 大会開催中止のお知らせ」を通告した。そこには「・・・青森県・岩手県・宮城県・秋田県・山形県・福島県・茨城県・栃木県・千葉県・長野県栄村在住の参加者で、被災・避難しておられる方には、追って参加料を返金させていただきます。(中略)なお、エントリーの際に、皆様にお支払いいただきました参加料の全額76,270,500(8,973名分)は、すべて義援金として被災地に送らせていただきます。大会要項の規約にございますように、添えぞれの参加者の皆様には返金をいたしませんが、参加賞Tシャツとナンバーカードを4月下旬に参加者全員に郵送いたします。フィニッシャータオル、スタッフウェア、スタッフキャップは救援物資として被災地に送ります。・・・」と書かれていた。私はこの組織委員会の英断に深く感動した。
 そしてまた私は、諦めていた10回連続出場のシルバーゼッケンと通常のゼッケンの両方(5枚目の写真)とTシャツを手に入れることが出来た。最近さらに思いがけないことに、来年4月に行われる第14回大会に、中止になった今年の大会参加予定者に優先的エントリー権を与えると発表された。このことは大変ありがたい決定で、10回を超えてさらに出来るだけ長く長野マラソンとつき合ってゆきたいと思わせてくれた。マラソンには暑く苦しい時期のマラソンで、完走するのもなかなか大変な大会であるが、素晴らしい応援と組織の優しさを感じて、さらに長いつき合いをと決意している。

高槻の秋(5) 芥川周辺の田圃では炭焼きが!?

  • 2011/10/20 23:08

 収穫の秋が終わりに近づくと私の育った三重県の田舎には見られない、ちょっと変わった光景があちらこちらの田圃(たんぼ)で見られる。それは、炭焼き?である。田圃で炭焼き? 不思議だがやはり炭焼きというしかない。この現象はこの地方独特のものかもしれないと思うが、本当かどうかは定かではない。
 私が住む高槻の北部地方の特産品に「服部の白瓜」があり、それを奈良漬にした特産品が売られている(http://takatsuki.osakazine.net/e167252.html )。実はこの白瓜作りは、「名人」がいるほど難しい作物のようで、そのために最近まで作る農家が減ってしまっていたと言われていたが、町おこしの一環としてじりじりと復活しつつあるようである。どうもこのことと炭焼きが関係ありそうなのである。
 さて、まずその炭焼きの話から始めよう。炭の材料はなにかと言えば、それはもみ殻である。そのもみ殻を1メートルほどの高さに積みあがったもみ殻の山に煙突がついていて、そこから煙が出ている(1枚目2枚目の写真)。中に火がついているのであろう。しかし、外側がぼうぼうと燃えているわけではなく、中が高温になって蒸し焼きになっているようである。
 私は子供の頃よく親戚の人に山にある炭焼き小屋に連れて行ってもらい、炭焼きを手伝いながらいろいろなことを教えてもらった。炭焼き窯に入れた木を高温にするために火をつけるのであるが、どの程度燃やすのか、いつになったら入口(酸素の取り入れ口)を閉めて中で木を蒸し焼きにするかはなかなか微妙だが、面白い見方をいろいろと聞かせてもらった。要するに、温度は高く酸素は限定的にし、気の主成分である炭素は燃やさずに“炭”にし、他の成分はガスにして煙突から放り出すのである。これを間違いなくやるために、煙突から出る煙の色や煙の温度を注意深く観察して(煙でマッチに火がつくかどうかとか)、燃えすぎていないきれいな炭を創り出すのである。炭焼きに興味のある方は、サイトは沢山あるが、たとえば、次のサイトをご覧ください(http://www.sumibito.com/yama.htm )。
 私はどうやってもみ殻の中に火をつけるのかは知らないが、朝8時ころには火をつけて焼けば夕方には十分炭のようなものなっており、火を消して安全を確保するようである。3枚目4枚目の写真は炭のように真っ黒になったもみ殻である。このもみ殻をどう使うのであろうか。私はひょっとしたら田圃に漉き込むのかと思ったがどうもそうではなく、野菜つくり、とりわけ白瓜の栽培に使うのだという。
 白瓜は、聞くところによると非常に病気にかかりやすいようである。それを防ぐために、様々なものの吸着力が非常に高い炭―ここではもみ殻の炭ーを苗の根元に敷いて病気の感染から守るということである。このもみ殻の炭はきっと白瓜のみならず様々な野菜の栽培に役に立つものと思われる。昔はもみ殻そのままを野菜つくりの畝に使ったり、リンゴを送るときに箱に入れたり、サツマイモなどを床下に保存するときにもみ殻の中で保存したのはよく覚えている。それにしても炭にするのは、なかなか面白いもみ殻の使い方ではある。
 収穫の終わった里山の田圃や畑では、これから春野菜を作るための整備が行われている。そのために枯れ草や芋の蔓などを焼く煙がたなびき、独特のにおいがして子供の頃の田舎の風景が懐かしく思い出される。そんな写真を最後にご覧いただきたい。草の匂いがしてくるであろう。写真はすべてクリックすれば拡大できます。

追記:私が炭焼きにかなりこだわるのは、子供の頃炭焼きの話を見聞きして、それを遊びに取り入れて楽しんだことがあるからである。我が家の庭の端っこに小さな炭焼き窯を造り、小枝を入れて炭焼きをやろうと何度も試みた経験がある。結局、失敗したが、そのことを今でも思い出せるほどその話は面白かったのである。そんな遊びを残念ながら今の子供たちに味わあせることはほとんど不可能である。そんな現状も書いておきたかったのである。

高槻の秋(4) 芥川ではもうアサギマダラは見られないのか?

  • 2011/10/19 17:13

 今年もまた芥川を訪れてアサギマダラを見たいと思った。しかし、アサギマダラが好んで集まる白い花をつけたミズヒマワリが全く見つけられないのである。そして、当然のようにアサギマダラも見つけることが出来なかった。昨年は都合でチャンスを逸したが、一昨年には沢山見ることが出来、写真も撮ることが出来た。ここにはその時の写真を掲載し、それが芥川辺りでは見られなくなるかもしれない状況についてお伝えしたい。
 アサギマダラは長距離の渡りをすることで知られているが、その特徴についてWikipediaは次のように言う。「アサギマダラ(浅葱斑、Parantica sita)は、チョウ目・タテハチョウ科・マダラチョウ亜科に分類されるチョウの一種。翅の模様が鮮やかな大型のチョウで、長距離を移動する。成虫の前翅長は5 - 6 cmほど。翅の内側が白っぽく、黒い翅脈が走る。この白っぽい部分は厳密には半透明の水色で、鱗粉が少ない。和名にある「浅葱」とは青緑色の古称で、この部分の色に由来する。翅の外側は前翅は黒、後翅は褐色で、ここにも半透明水色の斑点が並ぶ。
 オスとメスの区別はつけにくいが、オスは腹部先端にフェロモンを分泌するヘアペンシルという器官を持つ。また翅を閉じたときに、尾に当たる部分に濃い褐色斑がある場合があるが、これは性票で雌にはない。これで雌雄の同定が可能である。
 アゲハチョウ科の様に細かく羽ばたかずにふわふわと楽しそうに滑空し、また、人をあまり恐れずよく目にするため人気が高い。日本昆虫学会による国蝶選定の際に、ナミアゲハやアオスジアゲハ等と共に候補に選ばれたが結局はオオムラサキが選定された。夏から秋にかけてはフジバカマ、ヒヨドリバナ、アザミなどのキク科植物の花によく集まり、吸蜜する姿が見られる。」
 この芥川周辺でのアサギマダラが蜜を吸うのはもっぱらミズヒマワリという花のようで、私が見たのもその花に集まっていた数頭であった。Wikipediaはさらに次のように言う。「幼虫の食草となるガガイモ科植物はどれも毒性の強いピロリジジンアルカロイド(PA)を含むえられる[1]。また、成虫がよく吸蜜するヒヨドリバナやフジバカマも、蜜にアルカロイドを含む。アサギマダラはこれらのアルカロイドを取りこむことで毒化し、敵から身を守っている。アサギマダラは幼虫・蛹・成虫とどれも鮮やかな体色をしているが、これは毒を持っていることを敵に知らせる警戒色と考えられている。
 アサギマダラの成虫は1年のうちに、日本本土と南西諸島・台湾の間を往復していることが知られている。ただし北上する個体と南下する個体は子孫の関係で、同じ個体が移動する渡り鳥の移動とは異なる。」
 つくづく面白いものだと思う。夏に日本本土で生まれたアサギマダラは秋になると南西諸島や台湾まで南下する。そして繁殖した子孫が春には北上してくるのである。その移動直線距離はいまでは2000キロ以上に及び、1日に200キロ以上移動した個体が知られている。このような謎に満ちたアサギマダラに興味を持つ方々は沢山いるようで、各地に多くの研究者がいるらしい。この高槻にも何名かがおられ、情報を発信されている(http://www.tsuzimoto.net/blog/index.php?catid=2&blogid=1 )。
 さて、どうして今年ミズヒマワリが見つからず、したがってアサギマダラが見つからないのか。それは5枚目の写真に書いてあります。これは芥川の川岸に立っている看板で、つまりミズヒマワリは強力な繁殖力を持つ外来特定植物で、駆除の対象であるからである。芥川のミズヒマワリも駆除の対象になっており、かなりそれが徹底されてきたと言われている。

 みなさん、本当に驚くような蝶であるアサギマダラに興味をもたれたら、よく探してみてはいかがでしょうか。芥川周辺でミズヒマワリを見つけたら教えてください。また、よくご覧になりたい方は、私は手にとってみたことはまだありませんが、「白いタオルの一方をつかんでぐるぐる回すとアサギマダラが寄ってくることが知られる。利き手で網を持ち逆の手でタオルを回すと捕獲しやすい」(Wikipedia)らしい。また、次のサイトの内容はきわめて豊富で、アサギマダラがわくわくするような、謎に満ちた蝶であることを教えてくれます。是非、ご覧下さい(http://home.r07.itscom.net/miyazaki/zakki/asagimadara.html )。

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