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[簡易復元] 2010春京都・京北地方を行く(1)常照皇寺

  • 2011/10/24 13:40

(この記事のオリジナルは2010年4月に書かれたものであるが、ファイルが失われたため書き直す)

 「うろちょろ京都散策」のウェブサイトは次のように書いている。「天神川沿いの国道162号線(周山街道)を車で北へ。高雄を通り過ぎ清滝川沿いの緑の山々を見ながら、3つ目のトンネルを通り抜けると周山となる。そこから右手に折れ「鞍馬・大原方面」へ向かう山国街道(477号線)を走ること数分で「山国護国神社」がある。さらに道なりに走り、二つ目の橋を渡ったところで道は大きく右にカーブするが、直進する細い道の奥に常照皇寺がある。カーブする所にバス停「御陵前」がある。」 
 そしてその草創については、「常照皇寺は、南北朝時代の北・貞治1年/南・正平17年(1362)に光厳(こうごん)法皇がこの地に草案を結ばれたのが2年後に没した。その後、菩提を弔うために、開山を天皇とし禅刹に改め常照万寿皇禅寺とされたのが当寺。御陵が寺に隣接してある。戦国期(安土桃山時代)の天正7年(1579)、明智光秀が周山城(現在は石垣が残るのみ)を築くための木材を集めで周辺の社寺を取り壊したことで、当寺は衰退。その後も、太閤検地で寺領の没収や戦火で諸堂伽藍を焼失し荒廃。江戸時代に入り、後水尾法皇の尽力、徳川秀忠の外護があり、末寺300寺に回復。だが、昭和の敗戦後に多くの寺田や寺資産を失くしたまま、今日に至っている。」と書かれている。どこの寺院仏閣もそうであるが、特に京の周辺においてはかっては戦乱の世の中にあったのである。
 そんな常照皇寺は上の案内通り簡単に見つかった。そして長い石段を上るとそこには質素なお寺があった。そこの方丈には鴨居の上に仏壇があり、阿弥陀如来立像が祀られているという独特の形があって、少なからず驚かされた(2枚目の写真)。その方丈から開山堂へと移動するとその前庭には天然記念物である九重桜と呼ばれる枝垂桜が見事に花開いていた(3枚目の写真)。またその小さな庭園への入り口近くには菊の御紋のついた瓦が無造作に飾られていて、ここが天皇家ゆかりのお寺であることを印象付けていた(4枚目の写真)。
 常照皇寺を辞して石段を下って門前に出ると、そこにはピンク色の見事な枝垂桜が1本だけあり、まさに満開であった(5枚目の写真)。

[簡易復元] 2010年の暮れ、浅草寺と葛飾柴又へ(2)昭和の街、葛飾柴又

  • 2011/10/22 17:35

 浅草寺を訪れた翌日、寅さんの街、葛飾柴又を訪れることにした。寅さんの「男はつらいよ」をほとんど見たこともなく、寅さんの人となりに詳しくない私としては、情けないがいつものようにWikipediaにお願いするしか手はない。
 「古くから題経寺(柴又帝釈天)の門前町として知られていたが、映画『男はつらいよ』の舞台となったことでさらに広く認知されるようになった。江戸川の西岸に位置し、対岸の千葉県松戸市・矢切地区とを結ぶ渡し船「矢切の渡し」の渡し場がある。概ね住宅地からなるが、新柴又駅周辺には農地が存在する。北には金町が隣接し、北東に金町浄水場がある。東は江戸川の対岸に千葉県の下矢切が、南に鎌倉が、西に高砂と新宿がある。帝釈天界隈は、環境省の「日本の音風景100選」に選定されている。」とのことである。
 また寅さんについては「『男はつらいよ』(おとこはつらいよ)は、渥美清主演、山田洋次原作・監督(一部作品除く)のテレビドラマおよび映画である。テキ屋稼業を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎が、何かの拍子に故郷の葛飾柴又に戻ってきては何かと大騒動を起こす人情喜劇シリーズ。毎回旅先で出会った「マドンナ」に惚れつつも、失恋するか身を引くかして成就しない寅次郎の恋愛模様を、日本各地の美しい風景を背景に描く。主人公の名前から、作品自体も「寅さん」と呼ばれることが多い。」と書かれている。
 そんないわれのある寅さんの葛飾柴又、1枚目の写真は京成電鉄・柴又駅の写真で、その駅前広場には2枚目の写真の通りあの登録商標のような寅さんの銅像が立っていた。そして、ごく短い帝釈天の参道に入るとすぐ左にまるで丁度戦後の昭和の時代のような雰囲気の小さな、“なんでもあり”の店があり、賑わっていた。そこにはいろいろな駄菓子、いろいろなおもちゃ、ビー玉などなど、見ているととても面白いものに溢れていた。私もなんだかんだと孫へのお土産を手に入れて帝釈天への参道を進んだ(3枚目の写真)。
 その途中には、寅さんの映画で有名になった団子屋あった(4枚目の写真)。その店は数回の撮影の後店名を「とらや」に変えたために、映画に出てくる店の名前は後に「くるまや」に変えたいきさつがあるようである。私たちも帰りにそこで草団子をいただいてきた。
 帝釈天にお参りをしてから近くにある「寅さん記念館」を訪れた。そこはまるで昭和の塊のようなところで、なんだか懐かしい気持ちで一杯であった。その中に作られた模型の街並みと「くるまや」店内の様子の写真を組み合わせたものを最後にご覧いただきたい。昭和を体感するにはもってこいの場所ではある。

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[簡易復元] 2010年の暮れ、浅草寺と葛飾柴又へ(1)浅草寺から東京スカイツリーが見える

  • 2011/10/22 15:53

(この記事は2010年暮れに書かれたがオリジナルが失われたので、新たに書き直す)

 2010年暮れ、私用で東京に出かけたのを機に浅草・浅草寺を訪れた。浅草寺そのものを訪れるのは今回で確か3度目だが、私にはもっと違う印象がある。それは東京マラソンに出場した2度の経験である。2007年に新しく始まった東京マラソンは3万人が走るビッグな市民マラソンとして人気を集め、私も幸い2007年と2009年の2回幸運にも抽選に当たり出場することが出来た。
 浅草寺は東京都庁をスタートしてからおよそ28キロあたりにあり、中間地点を過ぎてこれからゴールに向かうという位置にあることから、浅草寺の雷門を見ると勇気100倍である。ランナーは雷門の大提灯(松下幸之助の寄贈品)に向かって真っすぐに突っ込んできて、その直前で右に90度曲がって銀座に戻ってゆくのである。私の出た2回とも雨に降られ、2009年の時の写真が残っている(1枚目の写真)。非常に元気そうであるが、銀座を過ぎて30キロを越えたあたりから頻拍が発生し、タイムを大幅に落としてとても考えられないほど苦しいレース展開になり、4時間31分54秒にゴールした。
 そんなことを考えながら浅草寺を訪れた。浅草寺は推古天皇の頃(628年)からの由来が伝えられ、徳川家康が江戸に幕府を開いてから徳川家に重用され、それを元に栄えたといわれる。それにしても相変わらずの観光客の多さに驚いた。雷門(2枚目の写真)を過ぎて宝蔵門に向かう参道の両側におよそ100軒近い店が並んだ仲見世の途中(3枚目の写真)、右を見て驚いた。建設中の東京スカイツリーがほとんど邪魔になるものもなく、くっきりと見えるのである(4枚目の写真)。
 そして宝蔵門をくぐって本堂に至るのであるが、5枚目の写真のように本堂に入る階段のところからも、お正月用の飾りの間からでもスカイツリーがまた見えるのである。庶民の人気の的である浅草・浅草寺、それにまた強力な援軍がやってきたものであり、さらなる観光客増加は間違いないと断言できそうである。

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