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[簡易復元] 2010年春 葵祭を楽しむ(1)勅使の列

  • 2011/10/25 17:52

(この記事のオリジナルは2010年5月に書かれたが、ファイルが失われたため書き直す)

 2010年5月15日、京都三大祭りのひとつ「葵祭」を初めて観ることになった。どの場所が見るのに好都合かはよくわからなかったが、結局丸太町通りと寺町通り、河原町通りが交差するあたりで見ることにした。その場所に着いた時には既に先導役が通り過ぎつつあった時で、慌ててカメラを取り出して行列を撮影し始めた。それはともかく、葵祭はなかなか難しい祭りのようで、ウェブサイトで少し勉強もした。京都市観光協会のホームページによれば、次のように記述している。
 「葵祭(あおいまつり、正式には賀茂祭)は、京都市の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で、5月15日(陰暦四月の中の酉の日)に行なわれる例祭。石清水八幡宮の南祭に対し北祭ともいう。平安時代、「祭」といえば賀茂祭のことをさした。石清水祭、春日祭と共に三勅祭の一つであり、庶民の祭りである祇園祭に対して、賀茂氏と朝廷の行事として行っていたのを貴族たちが見物に訪れる、貴族の祭となった。京都市の観光資源としては、京都三大祭りの一つ。
 葵の花を飾った平安後期の装束での行列が有名。斎王代が主役と思われがちだが祭りの主役は勅使代である。源氏物語中、光源氏が勅使を勤める場面が印象的である。(…中略…) この祭の特徴は、平安時代以来、国家的な行事として行われてきたので、わが国の祭のなかでも、数少ない王朝風俗の伝統が残されているということである。賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは、江戸時代の1694年(元禄7)に祭が再興されてのち、当日の内裏宸殿の御簾をはじめ、牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべて葵の葉で飾るようになって、この名があるとされる。」
 行列は本列と斎王代列の二つに区別され、この祭りの主役である勅使(勅使代)の列が最初に登場する。1枚目の写真はそれを護る武官の一人(検非違使志(けびいしのさかん))であろうか。2枚目の牛車は勅使代の乗る牛車で、いまはそれに乗ることはなく、3枚目の写真の主が多分勅使代であろうと思われる(馬の額に特殊な印がかけられている)。4枚目は勅使代に随伴する文官か。5枚目の写真は美しい花をいただく風流傘である。
 すべてがカラフルで、その美しさに魅せられる思いである。

[簡易復元] 2010年 高槻・桜公園の桜

  • 2011/10/25 13:58

(この記事のオリジナルは2010年4月に書かれたが、ファイルが失われたため書き直す)

 高槻北部、京都府亀岡との境界にあたる田能地区あたりから流れ下る小さな芥川は、不思議と巨岩がゴロゴロ立ちふさがる摂津峡を貫き、その川沿いに広がる里山に出て、その里山に貴重な水を供給している。そして、そのあたりは多くの人の散歩道やジョギングコースとなっており、暑い季節には芥川で安全に遊ぶ家族連れの格好の場所となる。また、桜公園近くの川沿いに建っている「あくあピア 芥川」のそばにはバーベキューの場所も用意されており、休日ともなれば寒中を除いて一年中バーベキューの煙の絶えることはない。このあたりは高槻市民のみならず、近隣の人々の憩いの場所になっている。
 そんな里山の入り口ともいえる高台に位置するのが桜公園で、沢山の桜が植えられ、またかなりの種類の遊具も整備されており、桜の季節には多くの観光客が訪れて大いに賑わう。また、秋には紅葉もきれいに色づき、そんな桜公園の桜と公園の雰囲気を写真でお伝えする。
 1枚目の写真は、桜公園から摂津峡方面を見た山肌の満開の桜である。2枚目は、桜公園からJR高槻駅方面を眺めた写真で、数年前から立ち始めた高層ビルがよく見える。この方面は最近関大などが駅近くに大きな校舎を建て始めてさらに再開発され、高層ビルの数はいまはもっと増え続けている。3枚目は、満開の桜の花の下で、家族連れを中心に大いに賑わっている花見である。
 それから1週間。散り始めて傘が要るほどの桜吹雪の中、翌年まで見納めとなる桜を惜しんでなお花見が続く(4枚目、5枚目の写真)。

[簡易復元] 2010春京都・京北地方を行く(2)北山杉と高雄

  • 2011/10/25 09:49

 常照皇寺への往路でも感心しながら見たものであるが、帰り道には北山杉をゆっくりと見ることが出来た。何故あのようなきれいな杉がこの地方に育つのかについては、「京都北山 ~北山杉のふるさと中川~」のウェブサイト(http://www12.ocn.ne.jp/~ydaisuke/ )に次のような非常に分かりやすい解説がなされているので、それを引用させていただきたい。
 「京都市街の西北約20kmに位置する北山地方、特に現在の京都市北区中川を中心とする地域は、丸太林業地帯として栄えてきました。中川地域は隣接する小野庄(現在の京都市北区小野郷)や梅ヶ畑庄(現在の京都市右京区高雄)とともに京都御所に産物を献上する『供御人』としての地位を授かって古来より磨丸太類の生産、販売を行っていました。室町時代、中川地域の磨丸太は千利休により完成された『茶の湯』文化を支える茶室や数奇屋の建築用材として頻繁に用いられるようになりました。その代表が桂離宮や修学院離宮です。江戸時代から明治時代にかけて、中川地域の磨丸太は京都市内はもちろん関西一円に販売されていたようです。
 第二次世界大戦後、吉田五十八や篠原一男らをはじめとする著名な建築家たちによる近代数奇屋建築が華々しく登場するなか、中川地域の磨丸太の需要は絶頂に達します。近代数奇屋建築ブームに乗って、京都府の京北町、八木町、日吉町にまで磨丸太育林が波及したのもこの頃からです。このような背景の中で中川を中心に高雄、鷹ヶ峰、小野郷を含めた地域からの丸太は『地山丸太』、京北町等からの丸太は『丹波物』と呼ばれるようになりました。(…中略・・・)
 磨丸太は杉の木の皮を剥いだ丸太のまんま、人目につくところで用いられます。だから、フシがあったり、キズがあっては磨丸太になりません。フシやキズのない磨丸太を作るため北山地方では緻密な育林技術を確立してきました。
 その技術の中でも特に重要なのが枝打ち。植林から伐採までの何度となく枝打ちが繰り返されます。滑らかな表面をした床柱をつくるため鋭利なカマやナタなどをもちいる枝打ちは一般の林業とは異なり、北山地方独特です。杉が太り過ぎないように、枝を落とし光合成を抑える一方、細くなりすぎないよう枝打ちには細心の注意が払われます。そして真直ぐな磨丸太を作るため、北山杉はすべて挿木から育成されます。北山地域は地形が険しく、さらに雪深いことが知られています。北山杉を育てるマエストロ達は、このような自然条件下で細い杉の苗をまっすぐに育ててゆく妙技を800年以上続く歴史の中で確立していたったのです。」
 このような真っ直ぐな丸太の生産のために、また生育を早めるために苗は挿し木によって育て、成長を制御するために一般的なスギ林に比べて5割増しの密度で急峻な山に植え、定期的な下刈り、枝打ち、を行って見事な丸太を生産し続けてきたのである。最初の写真3枚は、若く可愛らしい杉から見事な丸太に育っていく北山杉の写真である。
 しかし私にはもうひとつの丸太生産のことはよくわかっていなかった。それは「台杉」というやり方である。上にあげたウェブサイトによれば、
 「台杉、それは中川地方の急峻な山で効率よく磨丸太を生産する方法として編み出された山人の創意工夫の産物です。室町中期、『取り木』と呼ばれる台をつくり、そこから枝を垂直に伸ばして『立ち木』に仕立て、恒常的に磨丸太を生産する方法が初めて考えられました。苗の植付けから五年目、将来「取り木」となる裾の枝を残しながら、『立ち木』の穂先部に樹冠を残すのみで大部分の枝を打ち落とします。 
 その後、隔年ごとに『立ち木』の枝打ちをして床柱などに適した太さまで育ったところで伐採、最初の丸太を収穫します。一本目の伐採後は、『取り木』の中から直立してくる枝で素性の良いものを数本、次代の『立ち木』に仕立て適寸になったものから適宜伐採してゆき、この繰り返しで磨丸太を生産していきます。台杉方式で磨丸太を生産してきた中川では樹齢数百年にもなる台杉が今でもみかけられます。」
 まったく面白いやり方で、創意工夫の産物に違いない。私もこの地区で台杉を見たが、そんな深い意味があったのだとは意識できず、写真も撮らなかった。情けない限りであるが、良い勉強になったと思っている。4枚目の写真は、中川地区の川べりに立つ製材所群を映したものである。
 そこを離れて高雄で一服して帰ったのであるが、最後の写真のように春の高雄は山つつじで満開であった。

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