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[簡易復元] こんな遊びを知っていますか? でも、遊びでないかも!

  • 2011/10/16 16:52

(この記事のオリジナルは2009年秋に書かれたものであるが、失われたので簡易復元する)

 ビールの大瓶の写真が3枚ある。瓶の下には10円玉がひとつある。ふつう大瓶はその端をただ10円玉の上に載せておいてもほとんど傾いていないし、テーブルを動かそうが瓶をいじろうが何も起こらない。しかし、ちょっと変わった方法で瓶を10円玉の上に載せると、テーブルをかすかに動かしても瓶は倒れてしまう。
 しかし、ビール瓶を10円玉の上に傾けて乗せる、ということが実は大変なのである。いま瓶を傾けて立てよう、つまり10円玉の上に斜めに立てようとしているのが1枚目の写真である。
 そして、それが見事に立った写真が2枚目の写真である。3枚目の写真はちょっと別の角度で撮った写真である。では、どうやってそれを立てるのだろうか?ビール瓶の底は角張ってはおらず、丸い。では、その丸いビール瓶の底を10円玉のどこに当てて立てるのか。10円玉の裏にはアラビア数字で10とある。その「1」と「0」の間の隙間を利用してそこにビール瓶の底の丸い部分を載せてバランスを取るのである。「0」のゼロの中に立てることも考えられるが、私は無理とあきらめて試したことはない。
 だから、そんな狭いところに大きな大瓶の底の端を乗せてたてるのだから、その作業は高い集中力と微動だにさせずにその場所を探り当てるカンの勝負である。本当に疲れる作業である。そして、立ったビール瓶もそれほど長くは立っておらず、何かの拍子に倒れてしまうのでじっと手をそばに添えておかないと瓶が倒れて割れる可能性もあるから厄介である。この写真の場合も10分も立ってはいなかったと思う。
 要するに、この状態は極めて不安定な状態を表している。誰もテーブルをゆすっていないし、床をどんどんさせてもいない。それでも倒れてしまうということは、私たちの世界は、特に気が付かないがかすかに揺れ動いているということを示している。私はこの話をヒントにして若い看護の学生の方々に、生命とはこんな不安定な状態であること、そして、生命を安定なものにする努力にもかからわず常に不安定にする要因にさらされている、という話をしている。とにかく、生命とはそんな不安定な存在である。だから、極めて精緻に出来上がっているのであろうか。それを知りたいというのは、生物学者のみならず全ての科学者の想いであろう。そして、だからこそ、命は大事にしなければいけない。

[簡易復元] 秋の淀川、初冬の奈良春日・大仏周りを走る

  • 2011/10/16 13:26

(この記事のオリジナルは2009年に2つの別々のブログとして書かれたものであるが、簡易復元としてひとつに統一して書き直す)

 2009年11月9日、淀川河川敷平方大橋下をスタート地点とする「2009年大阪リバーサイドマラソン」(ハーフ)に出場した。この同じ場所では一週間前に「大阪・淀川市民マラソン」という大会がが毎年行われており、フルマラソン、ハーフ、それに10キロやもっと短いレースなど多彩な大会が開かれており、私もこれまで2度参加経験がある。しかし2008年から参加し始めたリバーサイドマラソンの方はもっとこじんまりした大会で、淀川市民マラソンにはない特長があることからこの大会に変更したのである。
 その特長は、正確な1キロごとの距離表示である。私が頻拍、つまり心拍数の急上昇という問題を抱えていたことは何度も申し上げているが、その発生を避けるためには出来るだけきっちりとしたペースで走りたいが、そのためには距離表示が必須である。そんなことからこの大会に出始めている。スタート、ゴール地点は自宅からも車で20分ほどと近いので気楽な大会である(1枚目の写真)。
 当日は天気も良く、無理をせずに気楽に頻拍の発生もなく楽しく走ることが出来た。公式記録は2時間03分54秒、ネットタイムは2時間03分04秒で、2時間を切っておきたかったのでそれだけがちょっと残念であった。
 それからおよそ1か月後の紅葉も終わりころだが快晴の12月6日、第29回奈良春日・大仏マラソン全国大会に参加した(2枚目の写真)。これもまあ近場の大会で、東大寺や春日神社、それに若草山の周りのアップダウンの多い、変化にとんだ狭い道を大勢の参加者が最初はひしめき合って走る大会で、ちょっと危ないところもあるが、しかし東大寺の鹿のいる参道(3枚目の写真、赤い矢印がある方向へ走る)など面白いところをいろいろと走らせてくれる、10キロと短いが面白い大会である。短く、しかもかなり混雑するので無理して走る大会でもないため楽しい感じが優先し、走り終わった後で有名な柿の葉寿司をお昼ご飯に頂いて、東大寺(4枚目の写真上)に無事生還のお参りをして京都行きの近鉄特急電車で帰ってくるのである。今回が確か3回目の参加であった。タイムはネットタイムは分からなくなってしまったが、公式タイムは59分40秒であった。
 そんな近鉄電車で帰る途中、ふと窓の外を見ると見慣れない大きな建造物が立っているのが見えた。窓のガラス越しに小さなデジカメで写真を撮っておき、自宅に帰ってから調べたところ、それは平城京跡に、奈良建都1300年に当たる2010年に合わせて大極殿(第一次)が実物大で復元され完成間近の大極殿であることが分かった。それは当時は即位式や外国使節謁見の朝儀のために使われた空間であったと言われる。写真も意外にきれいに撮れていたので4枚目の写真の下にお見せしたい。なお、私はいまだその実物を見に行ってはいない。
 その帰りの電車の中、私の隣の席に政治家・舛添要一氏一家が乗られていた。二人のお子さんに対して良きお父さんぶりを見せていた。

[簡易復元] 高槻の5月、ポンポン山、本山寺、鯉のぼり、そしてジャズストリート

  • 2011/10/13 11:42

(この記事は2010年5月に書かれたものであるが、オリジナルが失われたため、簡易復元する)

 関西の人に高槻と聞けば「摂津峡」、「ポンポン山」と答える人が多い。それほどこの二つは有名だが、幸い摂津峡は私の家の庭と言ってよいほどだし、ポンポン山は歩いても3時間ほどのところでそれほど遠くはないのである。摂津峡のことはまた書くとして、今回は本山寺とポンポン山のことを少し書こう。それに鯉のぼりとジャズストリートである。
 家から歩くとちょっと時間がかかるので車で本山寺の駐車場まで車で行き、そこから歩いて本山寺の脇を通り、比較的なだらかな山道を歩くこと約1時間、ポンポン山頂上に着いた(1枚目の写真)。写真にもあるように、その頂上部分はきれいに開かれていて、以前は見えなかったはずの高槻や京都方面が見えるのには驚いた。そのわけは次のWikipediaの記述で分かり、それにまた驚いたのである。
 「ポンポン山(ポンポンやま)は、京都府京都市西京区と大阪府高槻市の境界に位置する標高678.7mの山で、西京区及び高槻市の最高峰である。山頂の二等三角点は西京区に所在する。古くは加茂勢山と呼ばれていた。山頂わきを東海自然歩道が通過しており、一年を通じてハイカーが多い。また、1月1日の初日の出の際には、山頂で日の出を迎えようとする人がかなり多く、南に位置する本山寺では元日の未明には登山者に対して甘酒を振舞う。
 山頂はベンチやテーブルの設備もあり、休憩に適しているが、樹木の成長により、一時展望がほとんど無くなっていた。近年一部の樹木が伐採され、京都市南部方面と大阪市・高槻市方面の展望が良好に得られるようになったが、この伐採は実は心ないハイカーが地主に無断で違法に行ったものである。この行為は刑法の器物損壊並びに森林法の森林窃盗にあたるため、地主は警察に被害届を出すとともに、現在ヒノキの植林を行っており原状回復に努めているが、元に戻るには30年はかかるとしている。」
 なんと無断伐採などというそんないきさつがあったのである。まったくそんな不見識なことが許されるはずもないが、確かに展望は良くなったのは事実で、どこかで話が折り合えればとは思う。そのポンポン山の由来である“ポンポン”は、昔から頂上に近づくと足元でポンポンと音がするとのいわれから出た名前のようであり、そんな場所があるとも言われるし、どこかに空洞があるのではという話もある。本当のことは分からない。
 しばし頂上で休んでから下山し、途中にある本山寺に立ち寄った。大変古いお寺で由緒ありそうなお寺なのでいつものようにWikipediaにお尋ねした。
 「本山寺(ほんざんじ)は大阪府高槻市にある天台宗の仏教寺院。山号は北山。本尊は毘沙門天。鞍馬寺、朝護孫子寺とともに『日本三毘沙門天』とも言われている。本堂寺伝によると、持統天皇10年(696年)に役小角が葛城山で修行中に北西に紫雲のたなびくのを見て霊験を感じ、北摂の山に来て自ら毘沙門天像を彫り、堂を建てて修験の道場として開山したのが始まりと伝えられている。その後、宝亀年間(770年頃)に光仁天皇の子・開成皇子が諸堂宇を建立して本格的な仏教寺院として創建したと伝えられている。北摂三山寺として、根本山と号する神峯山寺、南山と号する安岡寺とともに北山と号して天台宗に属している。
 天正10年(1582年)の山崎の戦いの際に高山右近の兵火に罹り焼失したが、慶長8年(1603年)、豊臣秀頼が鐘楼、楼門などを再建。宝永年間(1705年頃)に5代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院が大改修を加えた。現在の中の門は、伏見桃山城から移築されたと伝えられる。
 戦国時代には、松永久秀がこの寺で立身出世を祈願し、その後望みがかなったことから五百住にある所領の良田を寄進しているほか、芥川山城より機内に権勢を振るっていた三好長慶や、キリシタン大名としても知られる高山友照・右近親子、甲斐国武田信玄の信濃侵攻により駆逐され三好家に身を寄せていた前信濃守護・小笠原長時らが寺領の安堵状を出している。また江戸時代には、高槻城主・永井氏や皇室などの崇敬を受けている。」
 また、本山寺とポンポン山の間には大きな杉の木があり、本山寺縁起によれば、「大杉は古来より天狗杉と称して鞍馬、愛宕、本山寺、箕面に飛翔する天狗の休息の地」と言われているようである。古の昔には京から北摂の間を天狗が飛び交っていたのであろうか。なにか不思議な感覚で、ちょっと空を見上げたい気分がする。

 そんな山を下りて平地の高槻においては、いまや高槻の大切なイベントになった「高槻ジャズストリート」が毎年ゴールデンウイーク中にあり、同じ時期に摂津峡を流れ下った芥川沿いで大規模な鯉のぼりが川幅いっぱいに5000匹?と言われるほどの数が泳いでいる。この高槻ジャズストリートは1999年に“音楽溢れる高槻の街”を目指してボランティアによって始められ、いまでは毎年10万人以上を動員すると言われる。2008年には15万人を集め、今年は577組のジャズメンが46会場で演奏した。Wikipediaによれば、
 「2001年に財団法人大阪21世紀協会が選ぶ「大阪スグレもの21賞」を受賞し、2005年には、第22回『大阪府まちづくり功労者賞』を高槻ジャズストリート実行委員会が受賞している。第10回を迎えた2008年には観客動員数が15万人を超え、日本最大級のジャズイベントとして2009年1月27日に大阪ミュージアム登録物に認定され、だんじり祭、天神祭などと共にベストセレクションに選ばれている。」
 私も毎年5月3日、4日は空けており、楽しく明るい雰囲気とジャズバンドを聞きながらのビールを楽しんでいる。来年もまた楽しみにしている。

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