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[簡易復元] 2009年夏 東北3泊4日の旅(2)「遠野物語」の里へ

  • 2011/10/28 11:41

 「宮沢賢治記念館」などのある花巻を離れて、今度は太平洋岸に向かって走り遠野を訪れた。その遠野の名を知らしめたのは、私は読んではいないが、柳田國男の「遠野物語」なのであろう。それはこの地方を表現する格好の材料であるので、それについてのWikipediaの情報を参照した。
 「『遠野物語』(とおのものがたり)は、柳田國男が1910年(明治43年)に発表した説話集。日本民俗学の黎明を告げた名著である。現在は、岩波文庫、角川ソフィア文庫、集英社文庫等にある。
岩手県遠野町(現・遠野市)出身の小説家・民話蒐集家であった佐々木喜善によって語られた遠野盆地~遠野街道に纏わる民話を、柳田が筆記・編纂し自費出版した初期の代表作。その内容は天狗、河童、座敷童子など妖怪に纏わるものから山人、マヨヒガ、神隠し、死者などに関する怪談、さらには祀られる神、そして行事など多岐に渡る。『遠野物語』本編は119話で、続いて発表された『遠野物語拾遺』には、299話が収録されている。もう一人大きな影響を与えたとされるのが、やはり遠野出身で、佐々木喜善の先輩格である伊能嘉矩であった。
 1910年、僅か350部余りで自費出版(聚精堂)された。柳田の前著である『石神問答』は、難解だったためかあまり売れ行きが芳しくなかったのに対し、『遠野物語』は僅か半年ほどで印刷費用をほぼ回収できた(200部は柳田が買い取り知人らに寄贈した)。寄贈者では、島崎藤村や田山花袋・泉鏡花が積極的な書評を書いた。『遠野物語』を購読した人たちには芥川龍之介や南方熊楠、言語学者のニコライ・ネフスキーなどがいる。特に芥川は本著を購入した当時19歳であったが、親友に宛てた書簡に『此頃柳田國男氏の遠野語と云ふをよみ大へん面白く感じ候』と書き綴っている。当時はあくまで奇異な物語を、詩的散文で綴った文学作品として受け入れられた。
 民間伝承に焦点を当て、奇をてらうような改変はなく、聞いたままの話を編纂したこと、それでいながら文学的な独特の文体であることが高く評価されている。日本民俗学の発展に大きく貢献した。1935年に、再版覚え書きを入れた『遠野物語 増補版』(郷土研究社)が刊行されている。また初版復刻本『遠野物語 名著複刻全集』(日本近代文学館監修、発売・ほるぷ、新版1984年)も重版されている。」
 そんな遠野地方の背景を知るために最初に訪れたのは「遠野ふるさと村」でした。そこにあった古い家屋は凄く特徴的で、「曲り家」と呼ばれているようで、人が住む母屋と馬小屋がつながったL字型をしていた。1枚目の組み写真の下部分にあるように母屋の床は昔の民家がそうであったようにピカピカに磨かれていた。
 遠野地方は太平洋岸に近く、冬もそれほど雪は降らず、したがって冷え込みが厳し、-30度近くまで下がることもあるという。大事な農耕馬でもある馬は人と一緒に同じ屋根の下で暮らしていたのである。その馬小屋と母屋のつながった辺りには「馬釜」と呼ばれる大きな釜があり、2枚目の下の写真に書かれているように、冬でも暖かい餌を馬に与え、豆や山菜を茹で、蚕の繭をほぐして糸紡ぎをし、厩を温めていたらしい。また、その釜は常に生木を燃やして使い、あえて燻ぶらせて茅葺の屋根を虫害から守ったのだとされる。巧みな生活の知恵である。3枚目の写真は脱穀などに使われていた水車小屋、昔の私の田舎やこの地方どこでも飼われていた蚕は、久しぶりに「とおの昔話村」で見ることが出来た。4枚目の写真である。
 最後の写真は、遠野物語にも出てくる河童伝説で河童がたくさん住んでいたという「かっぱ渕」に河童をもした木彫りの像が建っていた。河童伝説は幾つもあるようである。私も子供の頃には大人の人から夜な夜な面白い話、怖い話を聞かされて、おしっこにも行けなかった、そんなことをいろいろと思いだしたが、そんな民話が豊富な遠野を離れて、宿泊予定の厳美渓に向かって車を走らせた。

 

 

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