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[完全復元] 野球解説者は一体何を語る?(2)

  • 2011/09/26 17:38

[この記事のオリジナルは2010年1月16日に書かれたものである。最後に追記あり)

 「野球解説者は一体何を語る?(1)」で私は、元阪神タイガース監督で2010年シーズンからオリックス・バッファローズの監督に就任する岡田彰布氏は良い監督であると共に稀有な解説者であると書いた。そして、野球解説者は一体なにを語るのであろうか、と疑問も提示した。
 そうこうするうち、2日前の1月14日の読売新聞朝刊の小さなコラム「こだま」に面白い記事が載っていた。そこには岡田氏が企業経営者ら150人を対象とした講演会の様子が書かれており、その最後に「関西では、阪神寄りの解説が多い。(指導者として)阪神のユニフォームを着たい人が多いから」と笑いを誘っていた、とあった。
 これは実は笑い事ではない。私はいま関西に住んでいるから分かるが、岡田氏の言う「阪神寄りの解説が多い」というのは全く正解で、そのものズバリだと思う。そしてその理由も全くうなずけるもので、さらに言えば、解説者とはいえ、私から見ると一部の解説者を除けばほとんどが応援団に等しい。それは必ずしも解説者だけのせいではなく、ラジオ・テレビを含めたメディア側の問題と考えてもよい。つまりは、自分たちが愛する阪神タイガースに対して、その育成・成長に必要な厳しい批判の存在を許さない地盤を自分たちで作っていしまっているのである。
 かって、野村元監督は、「メディアが阪神を悪くする」と言ったように思うし、星野元監督も同様の趣旨のことを言ったと記憶している。このような過去3代の監督の言葉が常に優勝を争うチームにしてきたのであろうが、最近は昔のメディアに戻った感がある。その意味で、メディア側はもう少し解説者とアナウンサーを含めた野球中継のあり方を考えた方がよいのではないかと思う。野球中継に応援団なんかはいらない!
 だから私は前回のブログで、岡田氏が解説者を辞めオリックスの監督になるのは凄く残念だと書いたのである。

追記:案の定と言うべきか、2011年シーズン終盤、真弓阪神は昨年同様失速しつつあるが、岡田オリックスはCS出場権書くときにまい進している。

[完全復元] 阪神・淡路大震災後15年、復興の街・新長田と鉄人28号

  • 2011/09/25 22:07

(この記事のオリジナルは2010年1月18日に書かれたものである)

 初めて神戸市・新長田を訪れた。あの時私たちの目を釘付けにしたあの火災の映像を忘れることはできない。その際の多くの写真が数々の苦難を乗り越えて再建された大正商店街に何枚も展示され、沢山の人が食い入るように眺めていた(一枚目の写真)。
 そんな新しい新長田の玄関口であるJR新長田駅前はきれいに整備され、当時の傷跡を見ることは難しい(写真2枚目)。かっての惨事を二度と繰り返さないようにであろうが駅前や道路、そして商店街で人が行き交う道路幅は大幅に拡張されていて、広々とした感じになっていた。
 広々とした空間を作るように再建・復興された新長田にはあちらこちらに新しい高層住宅が建てられ(写真3枚目)、新長田一番街や大正筋商店街もそのような高層住宅の1、2階が使われている珍しい構成になっていた。私が訪れたのは震災の集いが開かれる前日であったが、土曜日ということもあったのか大勢の方々が商店街を歩き回り、活気に満ちているようであった。
 しかし、駐輪場の案内をしていた方に聞いてみると、まだ人口も元通りに戻っているわけでもなく、また復興の様子がよく知られていないこともあってウイーク・デイなどはまだ十分に賑わってはいないようである。また、その高層ビルに移り住んだ人たちの高齢化も進み、高い階に移り住んだ高齢者ほど孤独死が多いなどこれからの取り組まなければならない問題が山積みのようである。
 そんなこともあらかじめ考えたのであろう。「KOBE鉄人PROJECT」が発足し、新長田出身の横山光輝氏創作の「鉄人28号」が高さ18mという実物大の大きさで登場した。復興した一番街商店街すぐ横の新長田・若松公園に2009年9月に完成したもので、びっくりするぐらい大きく、勇壮で腕を大きく振り上げたたくましい姿である(写真4枚目と5枚目)。私が訪れた日も多くの人が集い、観光バスで見学に訪れる人もいるようで、そのプロジェクトは大きな成果を上げつつあるようである。その屈強な鉄人28号のように、新長田をはじめ阪神・淡路大震災に遭われた方々のさらなる復興・発展を祈りたいものである(写真はクリックで拡大します)。

[完全復元] 阪神・淡路大震災、15年目の1.17前日に神戸へ

  • 2011/09/23 22:55

(この記事のオリジナルは2010年1月17日に書かれたものである。なお、最後に追記あり)

 あれは私が大阪に移ってきてから6年目の平成7年(1995年)1月17日早朝午前5時46分のことだった。私は高槻市日吉台四番町の官舎で寝ていた。突然の激しい揺れに地震に鈍感な私も飛び起きた。官舎の外の街灯は点いていたが、突然それも消えた。慌ててテレビをつけたが地震があったというだけで詳細は全く不明であった。官舎に大きな被害がなかったので、直ちに名古屋の自宅に電話したところすぐに通じた。“どこが震源地だ!”と聞いたが誰もそれに答えられなかった。とにかく相互に無事を確認して電話を切った。その後テレビが、京都でホテルのガラス窓が割れた等と報道していたが肝心のことは分からなかった。その内にどうも震源地は神戸の方だということが分かってきたが、相変わらずどうゆう状況か分からずじまいであった。
 当時私が勤めていたのは大阪大学豊中キャンパスだったが、その状況も全く分からず、学部や大学院を卒業する学生にとっては大切な時期なので急ぎ大学に駆けつけることにした。途中、先輩の先生を拾って国道171号線を大阪方面に向かって走ったが、遅々として進まず、通常1時間弱のところが4時間以上かかってやっと豊中に昼頃着いたという状況であった。その頃には神戸方面の惨状が明らかになり始め、高速道路中国道の橋脚に地震のすさまじい傷跡が残されているのを目にした。また道路は救急車両がひしめき合うようになっていた。
 大学も大きな被害を受け、研究用機器の破損が相次いで発見され、本棚の倒壊などがひどい研究室もあり、それ以降長い期間被害の修復に時間と費用をつぎ込まざるを得ない状況であった。その後、研究室仲間の自宅が倒壊してお母さんが亡くなった旨の連絡があり、2日後状況確認に行き、その後2度ほど救援に駆けつけた。そしてあまりにひどい悲惨な状況を目の当たりにして言葉も出ない惨めな気持であった。それは昭和34年9月26日の伊勢湾台風後の惨状に重なるものであった。また神戸・ポートアイランドに住んでいた姉が被災し、それが遠因になったのかそれから数年後に亡くなることになった。
 ここに書ききれないほどのことが一度に起こり、自分の身辺のことにのみ時間を費やされ、阪神・淡路地方での悲惨な状況についてただ手をこまねいていただけであった。そんなことで一度その時のことを思い出すために神戸を訪れたいと願っていたが、ついに今年それを実現することができた。そして神戸の慰霊祭の会場と復興しつつある新長田の両方を訪れたが、ここには慰霊祭会場のことを書いておきたい。神戸だけでも4,600名以上、全体で6,434名が亡くなられたのである。
 神戸の慰霊祭会場は神戸市役所そばの東遊園地にあった。そこには像自体が倒壊した時を示す時計を抱く“マリーナ像”が置かれていた(写真1枚目)。まさに阪神・淡路が倒壊した時刻が歴然である。また、公園の地下には「阪神・淡路大震災 慰霊と復興のモニュメント」があり、主として神戸市内で亡くなられた方々の名札がびっしりと並べられ、花が手向けられていた(写真2枚目)。
 その慰霊祭会場では1.17に向けての準備が始まっていた。1万本と言われる竹灯篭が用意され、ボランティアの方々の手で並べられようとしていた(写真3枚目)。一部は既に写真のように並べられ、そこには多分ご遺族が書かれたのであろう「祈り」、「優」、「伝えよう」、「追悼」、「命」、「夢」、「絆」など沢山の言葉が溢れていた(写真4枚目)。
 そして「慰霊と復興のモニュメント」の近くには「希望の灯り」が灯されていた。そこには、「…たった1秒先が予知できない人間の限界…」と書かれていた。しかし、その碑文の次には、「震災が残してくれたもの やさしさ おもいやり 絆 仲間」と書かれていた(写真5枚目)。救われる想いである。そして、震災後の火災から採られたのであろうか灯がともされていた。(写真はクリックすれば拡大できます)

追記:2011年3月11日さらに巨大な災害が東日本を襲った。上の言葉のようなものが書けるのはいつの日のことであろうか。

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