エントリー

[完全復元] 阪神・淡路大震災、15年目の1.17前日に神戸へ

  • 2011/09/23 22:55

(この記事のオリジナルは2010年1月17日に書かれたものである。なお、最後に追記あり)

 あれは私が大阪に移ってきてから6年目の平成7年(1995年)1月17日早朝午前5時46分のことだった。私は高槻市日吉台四番町の官舎で寝ていた。突然の激しい揺れに地震に鈍感な私も飛び起きた。官舎の外の街灯は点いていたが、突然それも消えた。慌ててテレビをつけたが地震があったというだけで詳細は全く不明であった。官舎に大きな被害がなかったので、直ちに名古屋の自宅に電話したところすぐに通じた。“どこが震源地だ!”と聞いたが誰もそれに答えられなかった。とにかく相互に無事を確認して電話を切った。その後テレビが、京都でホテルのガラス窓が割れた等と報道していたが肝心のことは分からなかった。その内にどうも震源地は神戸の方だということが分かってきたが、相変わらずどうゆう状況か分からずじまいであった。
 当時私が勤めていたのは大阪大学豊中キャンパスだったが、その状況も全く分からず、学部や大学院を卒業する学生にとっては大切な時期なので急ぎ大学に駆けつけることにした。途中、先輩の先生を拾って国道171号線を大阪方面に向かって走ったが、遅々として進まず、通常1時間弱のところが4時間以上かかってやっと豊中に昼頃着いたという状況であった。その頃には神戸方面の惨状が明らかになり始め、高速道路中国道の橋脚に地震のすさまじい傷跡が残されているのを目にした。また道路は救急車両がひしめき合うようになっていた。
 大学も大きな被害を受け、研究用機器の破損が相次いで発見され、本棚の倒壊などがひどい研究室もあり、それ以降長い期間被害の修復に時間と費用をつぎ込まざるを得ない状況であった。その後、研究室仲間の自宅が倒壊してお母さんが亡くなった旨の連絡があり、2日後状況確認に行き、その後2度ほど救援に駆けつけた。そしてあまりにひどい悲惨な状況を目の当たりにして言葉も出ない惨めな気持であった。それは昭和34年9月26日の伊勢湾台風後の惨状に重なるものであった。また神戸・ポートアイランドに住んでいた姉が被災し、それが遠因になったのかそれから数年後に亡くなることになった。
 ここに書ききれないほどのことが一度に起こり、自分の身辺のことにのみ時間を費やされ、阪神・淡路地方での悲惨な状況についてただ手をこまねいていただけであった。そんなことで一度その時のことを思い出すために神戸を訪れたいと願っていたが、ついに今年それを実現することができた。そして神戸の慰霊祭の会場と復興しつつある新長田の両方を訪れたが、ここには慰霊祭会場のことを書いておきたい。神戸だけでも4,600名以上、全体で6,434名が亡くなられたのである。
 神戸の慰霊祭会場は神戸市役所そばの東遊園地にあった。そこには像自体が倒壊した時を示す時計を抱く“マリーナ像”が置かれていた(写真1枚目)。まさに阪神・淡路が倒壊した時刻が歴然である。また、公園の地下には「阪神・淡路大震災 慰霊と復興のモニュメント」があり、主として神戸市内で亡くなられた方々の名札がびっしりと並べられ、花が手向けられていた(写真2枚目)。
 その慰霊祭会場では1.17に向けての準備が始まっていた。1万本と言われる竹灯篭が用意され、ボランティアの方々の手で並べられようとしていた(写真3枚目)。一部は既に写真のように並べられ、そこには多分ご遺族が書かれたのであろう「祈り」、「優」、「伝えよう」、「追悼」、「命」、「夢」、「絆」など沢山の言葉が溢れていた(写真4枚目)。
 そして「慰霊と復興のモニュメント」の近くには「希望の灯り」が灯されていた。そこには、「…たった1秒先が予知できない人間の限界…」と書かれていた。しかし、その碑文の次には、「震災が残してくれたもの やさしさ おもいやり 絆 仲間」と書かれていた(写真5枚目)。救われる想いである。そして、震災後の火災から採られたのであろうか灯がともされていた。(写真はクリックすれば拡大できます)

追記:2011年3月11日さらに巨大な災害が東日本を襲った。上の言葉のようなものが書けるのはいつの日のことであろうか。

ページ移動

ユーティリティ

<<<2024年04月>>>

1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

検索

エントリー検索フォーム
キーワード

過去ログ

Feed