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東京マラソン2019が我が家の一大イベントの舞台に。(2)いかにペースがコントロールされていたのか

  • 2019/03/12 11:35

 目標は、3万8千人のランナーの中で迷子にならずに親子4人で一団となって走り、そのままゴールに駆け込む、そんなイメージを描いていた。これほどの大勢の中で走るレースはちょっと想像が難しく、普通のレースでも何かちょっとした拍子に仲間を見失うことは当たり前なので、皆でまとまって走ることは至難の業だと思っていた。でも、私以外の3人はよく考えていたようで、その様子は走り出すとだんだんと分かってきた。
 荷物を預けてスタートラインに並ぼうとした時に仲間の一人が面白いアイディアを出した。最初の写真で分かるように、皆のシューズを前に出して健闘を誓い合ったのである。その時点で4人のシューズはすでに冷たい雨でグチャグチャであった。それからスタートラインJブロックに入り、冷たい雨の中で並んで待ち、号砲を待った。9時10分の号砲の後しばらくして人の波は動きだしそれがスタートラインを越える9時30分まで続いた。スタートラインの近くでは小池都知事が立っていた。実は私は気が付かなかったが、仲間の一人が、小池氏がポケットに手を突っ込んでいるとつぶやいた。いまその写真を見て強く思う。内外からの3万5千のランナーが雨の中スタートラインに向かって歩く中、傘をさしてもらい温かそうな防寒具に身を包んだ小池都知事が手を振るわけでもなくポケットに手を突っ込んでランナーを眺めている姿は、東京五輪で”おもてなし”をするトップの姿であろうか!!!こんな写真を使いたくはなかったが、猛省を促したいと思う。私も参加した第1回の時はもっと激しい雨が降っていたが、当時の石原都知事はそんなに傲慢ではなかったように思う。いつからあなたはそんな傲慢な知事に成り下がったのか!

 それはともかく、やっとスタートラインを通過して私の当初の目標点80点を獲得できた。混雑の中ゆっくりとスタートしたが、寒い中での待ち時間はきつく、何人かができればトイレに行きたいと言い始めた。確か2つのトイレはあまりに人が多すぎたのでパスしたが、およそ3キロ過ぎの3つ目のトイレは適当と判断してトイレに入った。しかしなかなか列は進まない。結局そこを出たのが14分過ぎたところだったと長男が叫んだ。道路に出て驚いた。一番最初の5.6キロの関門(2枚目の写真下)で切られる最後尾のランナーの位置目印の風船を付けたスタッフランナーが走っており、そのあとにはランナーはまばらであった。そこで初めて時間切れで収容されてしまう全く想定外のことが頭をよぎり、ほとんど最後尾であることを知ってびっくり仰天した。
 私たち4人の走り方は、ペースコントロールに長けた次男とこまめに動ける長女が先を行き、少しだけ離れて私と長男が走るという布陣であった。そしてこの危機的状況を察知した次男・長女などの先頭がペースを上げた。それまで私の時計ではキロ7分06秒で走っていたが(3枚目のデータ)、そこからペースを一挙に6分30秒台に引き上げられた。しかしそれで行くしか先はなかったのである。それを順調にこなして6キロ地点に達した時、先を考えて私は”ちょっとペースを下げて”と連絡役をも務めていた長女にお願いをしたが、もう少し待てと無視された。それは後からわかったことであるが、次の関門が9.9キロとわずか4.3キロ先に設定されていてその間に許容されていた時間はわずか30分(2枚目の写真)しかなかったのである。この差の距離4.3キロを30分で走るとすると、キロ6分58秒で走らなければ2つ目の関門通過も危なくなってしまうのである。私はそのことを知らされていなかったが、多分それは余計な心配をさせないようにとの配慮だったのだろう。実際にはどのようにコントロールされたかを見ると、最初の関門を過ぎた6キロ以降11キロまでの各1キロは6分26秒から6分47秒で走っており、6分58秒より安全なスピードにコントロールされていたのである。彼らはこの時5秒刻みのペースコントロールをもくろんでいたとのことで、恐れ入ったペースメーカーである。その後の21キロまでは7分02秒から7分46秒で平均7分26秒で走っていた(3枚目の写真データ参照)。そして関門通過が問題なくなった21キロからは7分台から8分台までの少しゆったりしたペースが37キロまで続いているのが私の時計ではっきりした。このデータをちょっと説明しておきたい。これは私がつけていたGarminのGPS機能や心拍数を計測できる機能を持った腕時計のデータで、見にくいのはお許し願いたいが、1キロ刻みのデータが3列に並べられていて、ペースのところだけご覧いただきたい。ただ、私がゴール時にボタンを押し忘れたために終点が不明確になったことと、ビルの谷間を走ることが多い今回のコースのため電波の反射などでデータに誤差が出ている。その積み重ねが終盤に見られ、ゴール地点は、正式のネットタイム(5枚目のデータ)から考えると43-44キロの間だったと考えられる。それはともかく、この終盤のデータから判断すると、37-38、39-40、41-42キロの間にしばらく歩いていたと判断できる。でも、この歩きは、あえて言えば私の側からのペースコントロールであったといってよい。つまりは、最後にこのレースを壊さない私の経験からくる配慮だったと思っていただきたい。
 このような正確なペースメーキングを成し遂げたのは、長男のリタイアまでは先頭を走っていた二人が、またリタイアで3人になってからは次男が絶えず後ろの我々を観察し、的確にペースを上げ下げしていたからである。そんな彼らの後ろの観察をとらえた写真がある。4枚目の右上の写真は我々の家族や友人の大応援団が14キロ過ぎのポイントにいて(14という数字は私たち家族になじみの深いものだが・・・)、我等4人が同時に応援団と交流している姿をとらえているが、もう少し先の16か17キロ先のポイントでは長男が少し遅れだしていた様子で、私などは(右のレインコート)それを見向きもしないが先頭の次男は絶えずチェックしている様子が映っている。このような努力がかなり正確なペースコントロールができていた理由であろう。ちなみに、長男はこの先20キロ手前で残念ながらリタイアを余儀なくされたのである。そのリタイアの報告にみんなが集まり、このレースでの4人の写真を残すことになって撮った写真が5枚目の組み写真を構成している(この異質な組み写真の理由は、このブログのシステムでは写真は5枚までとの制限があるからである)。ほとんど練習の叶わなかった長男は、しかしよくここまで頑張ってくれたと感謝の気持ちで一杯である。
 再びデータの話に戻るが、以上のようなペースコントロールによって、4人のうち3人もが晴れてゴールでき、我々家族や友人達に素晴らしい一日を提供してくれることになった。その正式な速報値が最後のデータである。トイレトラブルで2万8千台まで落ちた順位が安定したペースコントロールによって徐々に2万4千台まで回復し、およそ3千5百人をごぼう抜きにしたと考えるととっても気持ちが良い。レース前にはこの逆のことを話していたので痛快であった。しかしこのペースコントロールで最も恩恵を受けたのはもちろん私で、給水・給食などあらゆることを二人に依存し、私はただきちんと完走できるように黙々と走るだけであった。そして次男同様大変だったのは長女であったのは確かであろう。次男や長男と私たちの情報連絡や、身の回りの世話はもちろんのこと彼女は走り回っており、よくあれほど軽々と振る舞えると思えるほどであった。彼らのサポートなしには私の完走などはあり得なかったとつくづく思っている。そんなサポートのおかげで、完全な省エネで走らせていただき、ゴールした時にはもちろん感謝の涙を流したとともに今回ほど消耗しなかったレースはなかったと痛感した。

 次の最後のブログでは、家族や友人たちによる応援についてとそれに支えられて走る我々の姿も見てもらいたいと思う。

東京マラソン2019が我が家の一大イベントの舞台に。(1)速報ーレースの準備からスタートライン、そしてゴールまでの苦闘

  • 2019/03/09 11:32

 昨年の夏前の6月の頃だった。以前から私はいつか子供たち3人と一緒にマラソンを走りたいとの希望を持っていた。もちろんそれまでに長男とはホノルルマラソンを、次男や長女とは長野マラソンを何度か走ってはいたが全員で走る機会はなかった。2019年は私も80歳になることでもあり、4月の長野マラソンを欠場した親父を見てその頃が潮時だと誰かが考えたのであろう。私たちも神奈川に引っ越したこともあり、みんなは東京マラソンのチャリティ枠での出場ができれば同時に走ることも可能だと判断した。そして、なんとそれが現実になったのである。では、それから東京マラソンを走るまでに起こった出来事を時系列に沿って書き記しておきたい。
 昨年7月の初め、親子4人パソコンに張り付いてエントリー枠の取得にまい進し、見事出場枠を取ることができた。しかし、それからの8か月が苦難の始まりであった。私としてはそれなりのトレーニングをして10月のタートルマラソンに出場したが、2時間17分程度のあまり芳しくないタイムで、おまけに後半は暑さに負けたか自分の身体をコントロールできない危ない走りとなってしまった((http://www.unique-runner.com/blog/index.php/view/300 )。そんな調子を引きずったのが11月の神戸マラソンで、なんと5時間40分台というタイムに終わってしまった。
 さらに別の苦難が続く。年が明けて1月8日ころから歯周病に原因する歯茎の腫れを引き起こし、いつもの抗生剤では収まらず、医師は用心して私に市立病院行きを命じた。そこで点滴を希望するかと医師に尋ねられたので、飲んでダメだったので希望すると答えた。これが問題の引き金だった可能性がある。点滴のおかげか腫れは3日ほどで完全に引いたがきつい下痢が4-5日ほど続いた。その間脱水状態になることを次男から指摘され、経口補水液を飲み始めた。抜歯を含めて歯の処置が済んだのが2月の初めで、そこから急ぎ走り始めたが数日後から体のあちらこちらに筋肉痛が発生し、トレーニングのできる状態ではなくなってしまった。
 要するに臀部、ハムストリング、ひざ裏、膝蓋骨周辺などに違和感が出てきた。横浜・市ヶ尾の佐藤治療院の佐藤先生、先生から紹介された東芝林間病院・スポーツ外来の鳥居先生などのご意見をいただきながら議論し、最終的には下痢を引き金にした脱水症状による筋肉痛と推定することになった。そこで経口補水液を一日できれば1リットルほど補給することを続けた。その効果が出たのか、少しずつ動けるようになってきた。でもレースまであと2週間ほどしかなかった。しかし佐藤先生の指示は、1日おきに30分限定でゆっくりしたランニングをして、決して無理なトレーニングをしないことだった。私はそれを守るしかなかったため、3月3日の4日前までにランニングをしたのはたったの4日だけだったのである。しかし、いまから考えるとここで体力を温存できたことが今回の結果につながった可能性が大きいと考えている。
 あと4日という2月27日にがん検診で行った血液検査で思いがけないことが分かった。通常13.8-16.8g/dLであるはずのヘモグロビン値が12.9しかなく、慌てふためいて佐藤先生の指示で貧血の薬ファイチを薬局で購入し、たった4日間ではあるが飲むことにした。
 さらに苦難の道は続く。東京マラソンの前日の3月2日、抜けられないサッカーの試合に出場した次男が右脚腓骨筋の腱を痛めたことを当日朝私は聞かされた。3枚目の組み写真の左部分でふくらはぎにきつくテーピングをしているのが彼で、そのあとトレーナーでもある長女からストレッチを受けていた。その甲斐あってか少しびっこを引きながらではあるが歩き始め、十分に私たちを引っ張る走りができそうな気がしてきた。
 最後の問題は気象条件である。前日の昼間の天気予報は、東京地方の雨は夕方か夜からになるでしょうというもので、ほっと一息ついていたというのが本音であった。ところが夜遅くから気配はおかしくなり、朝5時前に起きた時には6時ころから雨が降り始める可能性があると、ビックリするような予報に急転していた。ランニングウェアなどを変更し、レインコートなどを増やしたりあわただしい時間を過ごし、6時06分の小田急線に乗って新宿に向かった。新宿に着く頃にははっきり雨が降っていることが分かった。
 そして、周到に準備をして荷物を預ける頃には雨は強くなり、それからスタートまで約40分間極寒の中を移動しスタートを待ってたたずむことになったのである。そして9時10分に号砲が鳴って先頭はスタートし、我々はおよそ20分遅れの9時30分にスタートラインを通過することになった。その時とゴールの時の”東京”の気象データを示したのが4枚目の組み写真である(気象庁発表)。気象庁のデータでは9時の時点では4.4℃、我々がゴールする3時ころには6.2℃となっていたが、スタート地点ゴール地点のデータは少し違って朝が1.3℃高くなっている(プレスリリース)。それにしても気温は真夜中から朝9時に向かって急降下し、その後少し上昇するも6.2℃くらいで頭打ち。プレスリリースのデータを考えると、ゴール地点の気温も6.5度ほどで頭打ちでスタート地点より少し暖かそうに聞こえるが、実は湿度が朝の58%から4時ころには95%まで跳ね上がっていた。こうなると、汗で熱を放出することができず、逆に冷たい風で汗が冷えて低体温症の危険が出てくる。今回の完走率は94.31%でこれまでで二番目の低さであった。我々はゴール近くになって写真を意識してレインコートを脱いで走ったが、猛烈な寒さを感じて恐ろしかったことをまざまざと覚えている。

 とにかくスタートできて80点だと少し安堵しながら走りながら、いろいろなことがあったが徐々にペースが安定し、ペースメイカーの見事なコントロールや多くの応援団の強い支えに助けられ、わずか数回の歩きだけでとにかく最後まで走りきることができた。その辺りの話は次のブログに任せたい。この間ただただ残念だったのは、長男が寒さと右ひざの痛みに耐えかねて20キロあたりでリタイアを余儀なくされて三人のゴールになってしまったことで、しかし彼の健闘に感謝一杯である。最後の組み写真は、日テレのテレビ画像から撮らせてもらったもので、上はほぼゴールラインの上の画像で、黄色いT-シャツの私が左の次男と右の長女の手を取り合ってゴールしているのが分かる。また下側の写真は、ゴールラインを過ぎてすぐ手をおろし、私を中心に顔を見合わせ安堵している様子がうかがえる。ただ、ゴールしたことが分かればよいと考え、粗いけど出した写真である。
 このブログはこのあたりまでにしておきたいと思う。なお1枚目から4枚目までの写真の説明をしておこう。1枚目は、3月1日の受付時にSEIKOのブースで撮影したもの、2枚目は同じときに東京メトロのブースで撮影したものである。3枚目の組み写真はGate 3を入ったところで、スタート前に着替えをしているところでの写真で、左側はふくらはぎにテーピングする次男、右は私、真ん中は4人でスタートブロックに出かける前の写真である。4枚目は、プレスリリースの気温と風のグラフである。

  なお、このブログは私の日記帳でもあるので事細かい記述が多いこともお許し願いたい。(つづく)

東名高速バスからと横浜鶴見区のマンションから見た富士山(1)

  • 2019/02/08 20:55

 私が名古屋や大阪に住んでいたころは富士山には全く興味はなかった。それは若かったこともあるだろうし、もっと集中しなければならない仕事のことに頭が向いていたためだろうと思われる。退職後10年たったころの5年前にこちら神奈川大和市に転居した。その後2,3年の間はこちらの環境に慣れようと一所懸命だったこともあり富士山の”富”の字も頭に浮かぶことはなかった。でも、偶然とは恐ろしいもので、トレーニングのために中央林間のあたりを走っていて信号で止まった時、ふと西の方を見た時に大山や丹沢山系の向こうに白く光る富士山らしい山の頂上付近を垣間見ることができた。そして、それが見える場所をたどってゆくと、なんと私のマンション、いや私の部屋の窓からちょっと首を出せば正真正銘の富士山が見えることが分かったのである。なんと、それには驚き、ビックリ仰天したのを覚えている。
 それ以来、病院に行く途中小田急江ノ島線を数駅南に下った高座渋谷駅あたりで非常によく見える場所があるのを見つけブログにも書いたし、東京の高尾山に登った時にも、また小田急小田原線に乗って寒川神社に出かけた時にもたくさんの写真を撮りブログに公開したのを覚えている(http://www.unique-runner.com/blog/index.php/view/279 )。
 実は、私たちが引っ越してきたとほぼ同じころに大阪時代から我が家の友人であった御夫妻が偶然横浜に引っ越され、その奥さんがしばしば女同士の趣味を楽しむために我が家に遊びに来てくれていた。彼女が住む横浜からも富士山が見えることを知っていた私は写真を撮ってみたらと勧めることになってしまった。それを聞いてくれた彼女はマンションの高台から遠くに見える富士山を普通のカメラで撮影した写真を見せてくれた。1枚目の写真は、その写真を無理に拡大した写真で、粒子も荒れてピントも十分ではない写真であるが、しかしもっと良い写真を目指す基礎になった写真である。その後さらに良い夕暮れ時の写真を撮るようになった。その写真はすでに公開してはいるが、ここに2枚目の組み写真として再掲したい。
 そんな彼女の実家は京都にあるため、若くて体力のある彼女はいつも実家との往復を東名高速バスを使っていた。そして、その内に天候に恵まれれば富士山の大パノラマを見ることができることに気が付き、チャンスがあれば小さなカメラを富士山に向けるようになったようである。動くバスの窓ガラス越しに写真を撮るのはかなり難しいようで、よい写真を撮るコツをいくつか聞くことができた。もちろん、天候に恵まれ自分の席が富士山側(下りの時は進行方向に向かって右側、上りの時は左側)にあるときのことである。そのコツのいくつかを下に挙げさせていただく。

①少しでも高い位置から撮る方が手前の高速道路などの障害物が映らなくて済むので、窓枠の高めの位置にカメラを上げてシャッターを押す。ただ安定感がなくなるので、手振れ防止のためカメラの手振れ補正機能はONにしてておく。
②窓ガラスに内部の光が映る場合があるが、その場合にはできるだけレンズを窓ガラスに近づけるようにする。
③小さなオートフォーカスの場合シャッターを押してからシャッターが切れるまで少しの遅れがあるので、よいシャッターチャンスを逃さないためにはできれば連写機能を使うのが望ましい。
④富士山が綺麗に見える場所は2か所ある。一つは富士山の東、もう一つは富士山の南を通る時。だから、チャンスは二度ある。南東を通っている時は、手前の山に隠れて富士山は見えない。

 このようなことを頭に入れて撮られた富士山の写真を以下何枚か掲載させていただく。3枚目の組み写真の上部分と4枚目の組み写真は4月の写真で、まるで飛行機から撮ったように見えるものもあるが、もちろんバスからの写真である。そして3枚目の組み写真の下部分は6月の撮影である。最後の写真は、2019年1月に撮影された写真で、今年は雪が遅かったことが分かる。実にきれいに撮れていて感心するばかりで、今後の素晴らしい写真を期待して待ちたい。

 

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