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再録:「母からの伝言」ー1  改めて感じるあの戦争の残酷さ

  • 2021/12/12 18:42

 母からの伝言

 以下の文章は、平成元年10月17日に没した母が亡くなる何年か前に私を含めた4人の子供達に宛てて、苦しい時代の生き様を伝えようとして書かれたものです。最近再び目にすることになったこの手紙を見て、感慨深いものがあります。その中味は、何か高尚なことを伝えようとしたものでもなく、ただただ苦しかった生活を本人の感情の赴くままに書きつづったものでしかありません。しかしいま読み返してみると、そこには私自身も少しばかりは経験した苦しく、切ない時代が思い出されてきます。結果として、何不自由のない家に生まれながら日本の36年に及ぶ朝鮮半島の占領政策に続く太平洋戦争に巻き込まれ、翻弄され、苦しい時代の中に埋没せざるを得なかったひとりの女の物語です。 この文章を自分のホームページに載せようと思い立ったのにはいくつかの理由があります。最大の理由は、自分も忘れてしまいそうな母の想いを記録に残そうと思ったからであり、もともと6人兄姉の内の4人までも亡くしてしまったいま、その想いはさらに強くなったからでもあります。二つ目の理由は、母が伝えたかったその時代の銃後の生活の惨めさを、それらを全く知らない方々に少しでも感じてもらいたかったからです。私自身、その惨めさをあまり感じていないのが本当のところです。多分、母や父は、またその廻りの親戚の方々は私達子供にそんなことを感じさせないように気を使いながら日々の生活を送ってくれたものと思っています。親とは有り難いものです。 この手紙を最初読んだときは、心臓病に苦しんで亡くなった直後だったためか、書かれた中味の印象はそれほど大きくはなかった。しかし、それから10年近く過ぎ、自分もそれなりに年を重ねてくるとその文章の中味は不思議とより現実味を帯びてきて、辛い。そしてあの頃のことを、特にあの日の夕方のことは忘れられない。私が7才の時のことです。三重県多気郡三瀬谷村字弥起井という見事な清流・宮川の深い峡谷のある山村でのことでした。その田舎の家の庭で何かをしていた私の西の方、確か10メートル程離れたところに突然、リュックを背負い、浅黒い顔をし、やつれた軍服を着た男の人が立っていたのです。でも、私には誰か分からなかった。私は5才の時から父を見たことはありませんでした。きっとその時父は、「康坊か」と声を掛けてくれたのではないかと思うが、その事もそれから何をしたのかも全く思い出せない。また、その時どれほど母はうれしく、きっと喜んで泣いていたと思うが、そのことについての記憶も全くないのです。そして、唯々、あんな時代もあったのだなぁと思うと、何とも情けなくなる。 以下の文章は、原文のままです。旧かな使いもそのままにし、括弧の中には私なりの注釈をつけました(*印のついた括弧内は私の注釈)。僅か50年前の、そんな時代を感じていただければ幸いです。(平成10年10月17日) 以下の伝言を改めて再録する。(令和12月12日)

「4人の子供達へ」

 わたしはこう云う人生を歩みました。 大正2年6月19日、仁川萬石町(*現在の韓国仁川市)で生まれ、露に生まれたので父母が露子と名付けたそうです。7人兄弟の中の一人娘として何不自由もない家に生まれ、親の愛を受けました。
 来年女学校へ受験するその年の10月、父は胃潰瘍で吐血して一晩入院しただけで21日この世を去りました。38才でした。其の后母親一人で7人の子供を抱へ、苦労だったろうと思ひます。人の子の親になって始めてわかりました。一番小さかった朋也をだき、乳をのませながらよく泣いてゐたのを私覚えて居ります。母33才の時でした。
 女学校で18才の春3月24日に卒業、4月1日に結婚しました(*夫の名は定一で、14才違い)。あまり年が違ふので母も心配してゐましたが、亡き父の代わりに母の相談相手になって貰ふからと申し、愛も恋も何もわからず内に家庭を持ちました。母は私を心配して私共兄弟の乳母を私につけてくれました。一緒の家に住み(バアバアと云ってました)何もかも世話をしいろいろと家庭の中のことを教えてくれました。その内6人の子供に恵まれ、一人は9ヶ月で死に、一人は生后4日目に亡くなりました。
 昭和18年大東亜戦争で主人は陸軍司政官としてジャワに出征する事になりました。私、32年のすみなれた仁川を後にする事になりました(私は知りませんでしたが、三重県に引き揚げて2年目に、志願して出征したのだと聞きました。ショックでした。自分の代わりに親孝行をしてくれと云う事でした)。洋子女学校1年、ひとみ小学校4年生、敏夫小学校1年生、康夫5才でした。とにかく荷物は全部陸軍省から1貨車用意してくれまして、食料不足の折から(未だ朝鮮には物資が沢山ありました)ミソ、正油、衣類とそろえ引き揚げました。1ヶ月后、12月末ジャワへ出征するため、康夫を連れて大阪まで送りました。何も知らない康夫ははしゃいでいました。
 私はそれから苦労が始まりました。亡き兄の子供、私の子供、父母と12人の家内の中にとび込みました。毎日生まれて始めての百姓、山行、供出と銃後の仕事の連續でした。食べるものも不自由、おかゆをすすってしのぎました。百姓はしていても供出で皆とられるし、つつましく生活する家でした。その内敏夫が病気になり、山田日赤病院(*現在の三重県伊勢市、かっての宇治山田市)に通院しました。持って帰ったくつ下をバターに変えて食べさせて栄養をとりました。定一さんの嫁さんはこんな男の仕事なんてしたことないので気の毒だと村の人から言われましたが無言で働きました。私、自分の親類は一人も居らず主人の身内ばかりでした。つらい事きいて頂く人もなく、只子供が居るだけ。ある時は子供を連れてどこかへ行きたいと思ったか分かりません。あまりの仕事のつらさに、トイレで泣き、山で泣き、誰にも分かって貰へませんでした。
 主人の弟の両親をあづかりました。おばあさん、三瀬谷(*現在の三重県多気郡大台町)の長屋に疎開しました。おぢいちゃんは津(*三重県津市)に家があるので津を行ったり来たりしてゐました。津の大空襲のあとなかなかかへって来ませんので、その時の班長さんに連れて行って貰ひました。焼け野が原になってゐました。
 どこさがしても居らず防空壕をのぞきましたら、その中うじ虫の中で死んでゐました。暑さでうじがわいたのです。おぢいさんを引っぱり出し、死体の上に木をたくさん拾って来てつみ重ね、やきました。少しの骨を持ってかへりました。おばあさんも長屋で細々と暮らし、私が何か持って行ってやると手を合わせて拝んでゐました。その内老衰で亡くなりました。
 昭和22年5月夕方、ひょっこり主人がかえって来ました。私丁度麦をしごいてゐる頃でして、真黒に陽やけしてみるかげもなくみっともない顔で迎えました。栄養失調で長い長い間回復しませんでした。何カ月か経ってやっと元気をとりもどし、薬局がないのでやってくれと云われ、佐原(*三重県多気郡三瀬谷村字佐原-現在の大台町)に店だけ持ち、私は毎日自轉車で通ひました。
 その頃朝上(*三重県三重郡)の母(私の母)が危篤との電報でした。「露子はどうして来てくれないのだろうか」と毎日言ってゐたとの事でした。商売はしてゐるし、主人が行ってくれるとの事で、母の顔をみる事も許されず、遠い空より母の冥福を祈りました。母には親不孝したと心に悔いて母におわびをしてゐる私です。
 父(主人の父)も昭和26年3月24日83才で亡くなりました。下の世話も全部私がしました。私が佐原から夜かへって来るのを待って息をひきとりました。ボケがひどくて大分世話がやけました。母(主人の母)は36年4月23日亡くなりました。よく働く人で、そのあとをついて行く私も大変な苦労しました。
 これで4人の親をみました。やがて敏夫が大学入学、卒業。名古やで開局するため土地を求めました(*名古屋市千種区)。康夫も名大受驗パスしました。洋子、ひとみ1年おいてよき伴侶を得ました。主人が早く敏夫達のところへ行きたいと云い出しまして、名古やで小さな老夫婦の家を建てました。そして嫁を迎えました。若い二人に薬局をまかそう、若いものは又私共とやりかたも違ふし、はり合いも出来てくるので、思い切って私共は身をひきました。
 その内主人も高血圧で右手が不自由になりました。右手か左手だったのか忘れてしまふ様な年に私もなりました。何年か不自由なむつかしい看病しながら養生が始まりました。世話をしてはおこられ、無理を云ひ、難しい看病でした。でも本人が一番気の毒でした。とうとう主人も42年2月24日かへらぬ人になりました。38年一緒にくらしました。長いと云うか短いと云うのか分かりません。
 亡くなった頃から私に急に心臓病が目立って悪くなりました。子供達にもずい文お世話かけ、心配をかけました。母に貰った心臓病、こんな事言って母にすまないと思ひますが、ショックと両方でした。その心臓病、未だに通院してゐる私です。本家のお千代さんは言ってくれます、姉さんはあの男の仕事百姓がきっと体にこたへたのだと言ってくれます。人に話をしてもおそらく分かりません。つらいつらい毎日でした。この余生もあと僅か、心身の老いが日に月にせまって来る感じです。人の世話をしておけばやがては自分の時に幸せが来るからとよくききました。そんな日が自分に来るのでせうか。5人の死に水をとらせて貰ひましたので、もう良い事がふって来るのではないかと待って居りますが、一向にそんな気配一つみえません。人間生きてゐる間苦労だと云ひますが、ほんたうにそうだと思ひます。
 小さかった私の子供達4人も大人になり、それぞれ子供の親になり立派に生活してゐますので、私も安心して此の世を去る事が出来ます。この苦労性と小心な性格で一生を終へることになるでせう。この小心な性格が日夜頭をなやまし、ねむれぬ夜が多い事も確かです。皆さん敏夫、康夫、洋子、ひとみ、私のまねはしないで下さい。自由で幸せな人生を送って下さい。希望をもっがんばってください。

さようなら 合掌

ベーブ・ルースからおよそ100年の遥かなる旅路、大谷翔平の偉業ー同じ時代に生きて楽しめて幸せだった!!!

  • 2021/11/26 10:22

 この年,2021年のアメリカ野球界(MLB)が起こした偉業は驚くべき、ただ驚異と言うしかない一年だったと私は思う。シーズンが進むにつれ、米国メディアはかっての英雄ベーブ・ルースの業績と比較することに躍起になっていたが、時代が全く変わり野球の技術・レベルが全然比較にならないことは徐々に野球界全体に認識されつつあった。そして、オールスターゲームの開催にあたって、バッターとピッチャーの二刀流選手(two-way player)の登録・出場を可能にし、新しい時代に生み出された新しいタイプの野球選手の誕生を正当に評価するに至った。
 その決定的な認識の変化は、選手への最大の評価基準である最優秀選手賞(MVP)の評価に表現されることになった。それによれば、全米野球記者協会に所属している記者のうち30名による投票結果にものの見事に表現された。すべての記者投票は、アメリカン・リーグの最高殊勲選手にエンゼルスの”大谷翔平”選手を選んだのである。いわゆる”満票”による選出であった。満票であったという事実は、すべての記者は二刀流選手を正当に評価したという証しであろう。

 さて、彼が達成した二つの記録だけをここに書いておくと、ホームランは46本、投手成績は9勝2敗で、どちらの成績も普通の選手一人ででも達成することはそう簡単ではないことは明白である。 彼の成績はこれのみではなく、快足を飛ばしての長打率も高く、盗塁も群を抜く。シーズン当初から”大谷翔平は地球人ではない、宇宙人に違いない”との報道が世界中をにぎわしたのである。そんなことからシーズン中盤からはベーブ・ルースと比較する報道は徐々に姿を消し、まったく新しい二刀流選手として認識されるようになり、そして最終的に満票による最高殊勲選手賞に輝くことになったのである。現在までに10種類の賞を受賞しており、ただただ驚く以外にない。
 その結果は11月19日(日本時間)に発表され、その反響は号外をはじめとして日本の国中を大騒ぎさせた一大事であった。それを伝えた読売新聞の19日と20日の内3枚の記事の一部を借りしてお伝えしたい。これらの内容は今年一年たびたび報道されてきており、すでに周知のことであるが、あらためてMVP決定を歓迎してここにその読売新聞の3枚の写真を掲載させていただく。その記事の中には数々の記録が書き込まれているので、興味のある方は拡大してご覧いただきたいが、見出しだけご覧いただくのもうれしい。

 それにしても、大谷翔平がこれほどの偉業をいかにして達成したかは大きな謎ではあるが、そのひとつの興味深い彼のアプローチを示すものがあるのでそれをここに記載しておきたい。それは目標達成シート(マンダラシート)と呼ばれ、人事用語集「カオナビ」に詳しく書かれている。その4枚目の写真には大谷翔平の書いたものが分かりやすく表現されている(https://www.kaonavi.jp/dictionary/otanishohei_mokuhyosetteisheet/  )。そして、彼自身が書いたものの画像が5枚目の写真である(https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/02/02/gazo/G20130202005109500.html  )。
 彼は岩手県花巻東高校の野球部佐々木監督と相談しながらこのシートを作成したと言われる。その中心には当時の最大の目的である「ドラ1 8球団」(8球団によるドラフト1位指名)を設定し、その周り8つのマスには最終目標の「ドラ1 8球団」を達成すべく8つの目標を書き込んでいた。その8つとは、左上から右回りに、体づくり、コントロール、キレ、スピード 160km/h、変化球、運、人間性そして最後にメンタルと書き込んである。そしてその9つのマスでできたフレームの周りには同じ9つのマスでできた8つのマスが置かれている。例えば中心の”コントロール”の上の8つのマスには、右回りに、インステップ改善、体幹強化、軸をぶらさない、不安をなくす、メンタルコントロールをする、体を開かない、下肢のコントロール、そしてリリースポイントの安定、と設定されている。こうして残り7つの目標(この場合は目的)に対してそれぞれ8つの目標を設定する、つまり最大の目的「ドラ1 8球団」に対して9x9=81の目標を持って自らを鍛えてゆくというトレーニングメニューを動かしていたのである。つまり、トレーニング項目を視える化してイメージを高めて実践しようというやり方で、これを高校1年時から実践してきたのである。この81の目標の中には、メンタル、人間性、運などというフィジカル面以外も含まれており、彼がメジャーの試合でそれとなくゴミ拾いをする振る舞いなどの基本がこの時代からのものであることに驚かされる。
 この周到に計画されたトレーニングメニューこそが彼が押し付けられたトレーニングではなく、自ら納得の上で、トレーニングの目標を常に意識しながらトレーニングを二刀流選手というさらに大きな目的に向けて生かし続けてきたように思う。そのような大谷翔平という人間を生かしてきた東北という風土、彼を取り巻く人間模様、特にプロに入ってから彼を生かし続けた北海道日本ハムという球団、そしてその中で的確に彼を育てるプログラムを組んできた栗山監督をはじめとしたスタッフ、さらに彼を早めにMLBに送った勇気に感謝したい気分である。もちろん、彼の目指す方向を生かし続けたロサンゼルス・エンジェルスと言う球団・監督の貢献はとてつもなく大きいものと考えられる。これからもできるならば怪我をせずに長く元気で二刀流の選手であり続けてくれることを祈っている。

 なお、今回大谷翔平の二刀流選手出現を考えてみると、それはきっと様々な現代の問題と関連しているようにも思えてくる。近いうちにそのことについても少し考えてみたい。

追記:MLBに加えてNPBも私にとって楽しい。前年最下位の二つのチームが鎬を削るシリーズを戦う姿は、老舗と言われる情けないチーム同士が情けない、ありきたりの試合を繰り返すよりもはるかに新鮮で、見ごたえがある。来年にも期待したい。野球少年として育った私には、なんとも言えない良い年だった。

東京オリンピック・パラリンピックは終わった。感じたことをひとつだけ書いておこう

  • 2021/09/07 17:55

 新型コロナウイルスに襲われて1年遅れでやっと開催した東京オリンピック・パラリンピック2020は9月5日にほぼ大事に至ることなく終了した。その運営にかかわった多くの関係者の努力を高く評価したい。前例のない新型コロナウイルス感染症が世界を揺るがし続けているパンデミックの中、様々な批判を受けながら開催が決定された。しかし私自身、最後まで多彩な競技を正常に終わらせることができるかどうかについて大いに疑っていた。しかし、困難を乗り越えて支え続けた関係者の努力は、5年にわたってこの大イベントを必死の思いで自らの目標としてきたアスリートを裏切ることはなかった。この状況の中のオリンピック・パラリンピックを開催することができたのは、この世界の中できっと日本しかありえなかったのだろうと思う。その意味で、8年前のブラジルで次期開催地を”Tokyo"と宣言し、先日亡くなられた前国際オリンピック委員会のジャック・ロゲ会長は運のよい人だったのかもしれない。

 それはともかく、今回のオリンピック・パラリンピックがこれまで例を見ないパンデミック下で行われたこと、さらに、スポーツの著しい商業化や数百万ドルと言われる巨額の放送権料によってこれらイベントが動かされていることなどの諸問題は隠しようがない。それらの問題点は今後様々な角度から議論されなければならない。

 今回ここでは、特にパラリンピックをテレビで観戦し心に深く浸みた言葉の数々の背景を私なりに簡潔に書いておきたい。私が感銘を受けたのは勝利してメダルを獲得した者であれ、敗れて取り損なった者であれ、インタビュアーに応えて彼らが吐露した言葉の数々であった。それを一つ一つここに記すことをしないのは、皆さんはそれをテレビなどで心に深く留められたであろうと思うからである。

 我々がたびたびテレビなどで聞く健常者アスリートのインタビュー(野球やサッカーなど)と著しく違うことは、彼らパラアスリートはもちろん厳しい苦境下(差別下)に置かれていた故に今回の開催に強い感謝の意を表すのはもちろんであるが、それ以上に彼らはどこに技術的な問題があったのか、どこが苦しかったのか、どのトレーニングが難しかったかなどなど極めて具体的に、しかも饒舌に語ってくれることであった。それはインタビューを受けたほとんどのパラアスリートに共通の現象で、いわゆる”障害者”という苦境にとことん追い詰められてきたからであろう。そしてそこから脱出を試みてアスリートとして芽を出してきたからこそ彼らには発言すべき、表現したい内容が溢れるほどあるのだろうと推測する。同じことは、かってはパラアスリートで、今回テレビのインタビュアーとして登用された方々の言葉にも同様の深い内容と饒舌さが明らかに認められた。

 私は一杯様々な競技の放映をもちろん観たが、ここでは男子車椅子テニスの準決勝、決勝戦を話題にしたい。9月4日の決勝戦は国枝慎吾選手の圧勝であった。しかし、その一つ一つのプレーを私はハラハラドキドキしながら観ていた。それは、彼がそれまでに二つの金メダルを取っていてもその後肘の手術などからの再起に向けて血の滲むような努力があったことを聞きかじっていたからである。それを乗り越えてきているからこそ、あの160キロから170キロも出る相手(トム・エフべリンク、オランダ)のサーブをほぼ完ぺきにさばけていたのだろうと思う。そして彼は、苦悩する姿を見せることなく最後まで完璧にやり通した。そして彼は、思い切り泣き、その後さまざまな機会に詳しく語ってくれた。

 最近、ドイツの片足義足のジャンパーを研究している東大の研究者の話を少し聞いた。それは驚くなかれ、トレーニングによって脳の機能部位の再編成が起こっているというのである。したがって、それによって今まででは考えられないような新しい脳機能の発現がありうるというのである。私には、なぜあのようなジャンプができるのか、足も手も正常ではない障害者(こう言ってよいのかは分からない)がなぜあれだけのスピードで泳げるのか、なぜ手や腕のない人がアーチェリーの弓や卓球のラケットを操れるのか全く理解できない。ひょっとすると、我々が知りえない障害の克服過程には、脳機能の再編成を探し求めるようなトレーニングが必要とされ、結果的にそれを導き出すために、いわゆる健常者に想像すらできないような何らかの厳しいトレーニングがあり、そこを含めて彼らは深く多彩な言葉の発見や発言が必要になるのかもしれない。だから、彼らは能弁に語れる。

 私は車椅子バスケットボールの試合も追い続けた。そして最強のアメリカとの決勝戦も前半の10分を見てズタズタにはされないと悟って安堵したが、しかし後の30分を観ることはできなかった。沢山点を取られたら…、負けたら…、観てられないという感じがしたからである。だから、ランニングに出た。10キロ走って戻ってくると残念ながらやはり僅差(4点差)ではあったが負けていた。でも、かなり時間がたっていたためか選手たちのすがすがしい笑顔が見られて嬉しかった。やはり彼らも様々な厳しいトレーニングと新しい戦術を編み出して戦ったという。

 できるだけ早くもう一度彼らのプレーを見てみたいものである。彼らのプレーを見られて大変うれしかったし有意義であった。パンデミック下での苦しいオリンピック・パラリンピックの開催であったが、私を含めた多くの人々がこの機会に得たものを糧に「多様性と調和」の世界への前進に生かしたいものである。

 最後に、9月6日読売新聞に掲載された写真を一枚添付したい。もちろん無数の写真のごく一部である。そこには”支え合い 輝いた”とある。

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