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桜宮高校体罰事件から「日本のスポーツの限界」について想う

  • 2013/01/13 10:47

 2012年12月23日に大阪市立桜宮高校2年生の生徒が、前日22日に所属するバスケットボール部顧問から体罰を受けたのを苦にして自殺した問題は、スポーツ界のみならず社会的にも大きな波紋を広げることになった。このブログにつけたタイトルは“桜宮高校体罰事件から「日本のスポーツの限界」について想う”である。なぜそのタイトルかといえば、実は1990年6月にそれまで思い悩んでいたことを本にしようと書き始めたときの仮題が「日本のスポーツの限界」であったのである(http://www.unique-runner.com/book.htm )。
 その「まえがき」の中で次のように書いた。その一部を少し長いが引用させていただきたい。「・・・スポーツはいろいろな形で存在しているが、誰もが認めるスポーツ像とは、楽しいものでなければならないの一言に尽きるのではないだろうか。
 近代スポーツの確立は、ヨーロッパでの産業革命を機に能力主義を前提にしてきたと言われる。経済活動を中心としてますます競争の激化する現代社会において、スポーツをすること自身の中にもこの競争原理が激しく入り込んで来ていることを我々は感じている。競争社会に疲れた現代人は、楽しむべきスポーツの中にも安らぎを覚えられないとしたら、私達はいったいどこへいったらよいのであろうか。
 昨年秋ソウルで行なわれたオリンピックでの日本選手の成績は惨さんたるものであった。僅かに100メートル背泳ぎで金メダルを獲得した鈴木大地選手の活躍はすばらしいものであった。そのときのことを少し思いだしてみよう。決勝を前にしての大地選手のインタビューを聞いた多くの日本人は、彼の大胆さ、不機嫌さ、一見傲慢に見える態度に一種の不安を感じたのではないだろうか。それは、そんなときにインタビューをする者への怒りであっただろうし、秘策を胸にする彼の自信でもあったであろう。その自信を彼は見事に証明してみせたのである。
 私たち日本人は、自分の考えを率直に表現したり、疑問を表に出すことを極力抑えるよう教育されつづけてきた。そのため、相手によってそんなそぶりを見せられれば、何とも言えぬ不安を感じるのである。このような状況が、スポーツ界にも存在している限り、日本のスポーツが全体として世界的レベルに達することは困難であろう。自立したスポーツマンに見えたスピードスケートの黒岩彰選手ですら、サラエボでの冬のオリンピックでは、自分の前に立ちはだかる壁を乗り越えられなかったのであり、そのためにはさらに4年の年月が必要であった。
 私たちの自己表現のなさは、何もオリンピックを語らなくとも身の回りに幾らでもその例を見ることができる。後でも明らかになるように、高校野球の選手達もまた、自分達のけがを正しく監督に伝えられないようである。ましてや、高校進学のための内申書が重要な意味をもつ中学生には、なおさら同様のことが問題になるであろう。これらのことは、楽しく、健康づくりに必要であるはずのスポーツ活動が、健康のためにも、教育のためにもなっていないのではないかと考えさせられるのである。」

 ここに掲載した写真は、2013年1月13日の読売新聞朝刊に記載された記事で、大阪市長橋下氏が遺族に謝罪のために面会した後の記者会見の記事で、彼自身がスポーツ界における体罰を半ば黙認する形で来たことに対する反省と、その後の調査で同校バスケット部がそれまでの成績もあってか超法規的存在になっていたことを示す記事も掲載されている。
 ここで橋下市長が述べていることは当然ではあるが、スポーツ関係者の多くはスポーツの上達のためには体罰は必要悪だとする風土が存在し自らもそれを実践してきたことを認めるであろう。特に強豪校と言われ、常に全国的に有名な学校の部活において特に顕著であるように思う。体罰は身体に与える物理的な行為だけではなく、同様に問題なのは言葉による軽蔑や無視、あるいは恫喝である。現在このような行為は大人の世界ではパワー・ハラスメントと呼ばれ、セクシャル・ハラスメントと同様に重大な問題として取り組み始められているが、学校におけるこのような行為は未熟な成長途上の子供たちに向けられているという点においてより深刻である。
 運動部の部活動におけるこのような行為(体罰や言葉による恫喝)は、指導者の正しい言葉による指導における自らの力不足を覆い隠すものでしかない。まともな指導言語をもたないゆえの哀しい行為であると断言するしかない。そのような指導者は速やかにその地位を去るべきである。そして、そんなことを許容してきた教育現場の責任も厳しく断罪されるべきである。
 写真に示した記事の中に元メジャーリーガーであり、清原とともに一世を風靡した巨人の元投手桑田真澄氏の談話も載せられている。彼は引退後に早稲田大学大学院において野球やスポーツの現状について調査・研究し、大変興味深い修士論文を書いたことはよく知られており、私もその内容についてはよく知っている(http://www.unique-runner.com/blog/index.php/view/83 )。その意味で彼の言葉には耳を傾ける価値があると思われる。だが、そんな彼の意見を聞いて多くのプロ野球関係者は、「そんなきれいごとばかり言っていては強くならない。だから彼にはコーチなどのオファーがないんだよ」とうそぶく人たちが多いという。なんとも情けない人たちにこの国の若者の指導を任せているかと思うと歯ぎしりする想いであり、そこに日本のスポーツの限界があると考えるのである。
 ここにこれ以上書くスペースはないが、私としては機会があればまたここに書くことになるであろう。これまでもこのブログに開星高校や和歌山・智辯学園高校の指導者についての意見を述べさせていただいた(http://www.unique-runner.com/blog/index.php/view/34 )。今日最初に引用した私のホームページにアップロードしてある未完成の「日本のスポーツの限界」もぜひお読みいただければ幸いである。なおこの未完の原稿は、残念ながらいまも未完のままである。その理由のひとつは新しい内容に裏づけられて発足したJリーグへの期待であった。
 最後に、私が家族とともにアメリカに滞在した時の経験を書いておこう。子供たちは当然のようにサッカークラブに入ってサッカーを楽しんでいた時のことである。中学1年の長男が所属していたチームの試合を見ていて、ハーフタイムになった。そのときコーチ(監督)は彼らのプレーについて意見を言った後子供たちの意見を聞いた。そのときゲームに出ていなかった補欠の選手が、サイドラインで見ていた親たちがゲーム中にプレーにうるさく注文を付けていたことに猛然と反発したのである。おそらく日本では全く考えられないことであろう。子供たちがそのように育てられていることに私は強い衝撃と深い感銘を受けた。そんな国を相手にして今も昔もとても勝ち目はないのである。

2013年初頭、京都に方広寺・豊国神社を訪ねた

  • 2013/01/06 17:49

 正月恒例の天皇杯サッカーの決勝、実業団駅伝、そして関東大学の箱根駅伝も終わった正月4日、JR京都駅から近く京都国立博物館や三十三間堂のそばにあるとされる方広寺と豊国神社を訪れることにした。この両方とも武家政権から明治維新という激動の歴史を体現してきたものとして少なからず興味は持ってはいたが、それぞれの歴史については全くの無知であった。訪れたのは豊国神社が先であったが、歴史的には豊臣秀吉自身がその設立に関与したとされる方広寺のことを先に見てみよう。その方広寺についてWikipediaは次のように言う。
 「方広寺(ほうこうじ)は、京都府京都市東山区にある天台宗の寺院。通称は大仏殿。豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として創建された。豊臣秀吉は天正14年(1586年)に大仏の造立を発願。当初は東山の東福寺付近に造立する予定で、小早川隆景を普請奉行とし、大徳寺の古渓宗陳を開山に招請した。大仏と大仏殿の造立はいったん中止された後、天正16年(1588年)に、場所を蓮華王院北側の現在地に変更して再開。秀吉は高野山の木食応其を造営の任にあたらせた。小田原征伐を挟んで天正19年(1591年)5月に大仏殿の立柱式が行われ(言経卿記)、文禄2年(1593年)9月に上棟(多聞院日記、三宝院文書)、文禄4年(1595年)に完成をみた。同年9月25日には大仏開眼のため千僧供養会を行った。天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、一向宗の僧が出仕を要請された。千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所が、妙法院である。…(中略)…
 その後、豊臣秀頼は慶長4年(1599年)、木食応其に命じて大仏(銅造)と大仏殿の復興を図るが、慶長7年(1602年)火災が起き、造営中の大仏と大仏殿は焼失してしまった。慶長13年(1608年)より再度復興が開始され、慶長15年(1610年)6月に地鎮祭、同年8月に立柱式が実施されて、慶長17年(1612年)には大仏に金箔を押すところまで完成。慶長19年(1614年)には梵鐘が完成し、徳川家康の承認を得て、開眼供養の日を待つばかりとなった。ところが家康は同年7月26日に開眼供養の延期を命じる。上記の梵鐘の銘文(東福寺、南禅寺に住した禅僧文英清韓の作)のうち「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものと看做され、大坂の役による豊臣家滅亡を招いたとされる(方広寺鐘銘事件)。」
 まさにここにも秀吉の強引な手法と家康との確執が如実に表れていて興味深い。その方広寺の鐘楼と日本一巨大で82トンもあるという梵鐘の組み写真が1枚目の写真で、その中に「国家安康」「君臣豊楽」の文字が書かれている部分の写真がある。それを拡大したのが2枚目の写真で(それらの字が何故白く囲まれているかは私は知らない)、これが大坂の夏の陣、冬の陣と関連したかと思うと意外である。でも、家康はどんな理屈をつけても豊臣家の根絶やしを求めたのであろう。
 その方広寺の、かっては大仏殿があったといわれるところに創建されたのが豊国神社である。それについてWikipediaは次のように言う。
 「豊国神社(とよくにじんじゃ)は、京都市東山区に鎮座する神社。豊臣秀吉を祀る。豊臣秀吉の死去の翌年の1599年(慶長4年)、遺体が遺命により方広寺の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として廟所が建立されたのに始まる。この時、秀吉は東大寺の大仏に倣い、自身を八幡として祀るように遺言したが、結果として方広寺とは別の存在となり、別に神宮寺が建てられ、神号も大明神となっている。後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われた。
 しかし、1615年(元和元年)に豊臣宗家が滅亡すると、徳川幕府により方広寺の大仏の鎮守とするために廃絶され、大仏殿裏手に遷されている。神宮寺や本殿は残されたが、それも後に妙法院に移されている。…(中略)… 1868年(明治元年)、明治天皇が大阪に行幸したとき、秀吉を、天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣であるとして、豊国神社の再興を布告した。1873年(明治6年)、別格官幣社に列格した。1880年(明治13年)、方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し、遷座が行われた。」
 ここにも天皇家と豊臣家や徳川家との露骨な関係の違いが現れている。要するに天皇家が豊国神社の再興を布告したのは、豊臣家は天下統一をしながら幕府(著者注:中世および近世の日本では武家政権を指す)を開かなかったことを高く評価し、もちろんその裏では徳川政権に対して明らかな敵意を抱いて来たことを表している。そして今では、かってはいまの国立博物館まであった方広寺の敷地の中で、方広寺よりはるかに広い敷地を豊国神社が占めているのである。歴史の流れの中にはその時代の意識、特に支配層の意識が、当たり前であるが、如実に反映されているようである。

「ゴジラ 松井秀喜選手」遂に引退、ご苦労様でした

  • 2012/12/29 18:01

 私はスポーツは何でも好きだ。でも、その中でプレーするのも見るのも一番好きなのは野球で、その野球選手の中で最も好きな選手は松井秀喜選手であった。その松井秀喜選手が27日にニューヨークで記者会見して、「命がけのプレー 結果出なくなった」と述べて遂に引退を宣言したという(読売新聞、28日夕刊)。痛恨の極みである。
 彼のことについて多くを語る必要はない。甲子園で一試合の5打席全打席を敬遠されても文句は言わず、後に「それも立派な作戦です」と語り、すべてのプレーに全力を尽し、10年にわたる日本の球界で打点王、本塁打王を三回、首位打者を一回、そして最優秀選手賞(MVP)を三回獲得した。そしてメジャーリーグに挑戦し、並みいるトップレベルの選手たちのひしめくヤンキースで7年間プレーして遂に2009年のワールドシリーズで、ヤンキースをワールドチャンピオンの座に担ぎ上げ、そのシリーズの最優秀選手賞に輝いた。
 確か2007年だったか守備で左手首を骨折し、また最近は両ひざを痛めたことが惜しまれる。それも強打を誇った大きな体の影響があったのかとも思われる。でも、そんなことはもうよい。彼には不満だったかもしれないが、我々から見れば十分すぎる仕事を成し遂げてくれたのだ。
 私が彼を好きな最も大きな理由は、彼は“Gentleman”だからだ。調子の良い時も悪い時も常に報道を通じてファンに言葉をかけ、きちんと説明責任を果たしてきたからである。どんな素晴らしい成績を上げた選手でもこの点で松井秀喜氏に勝る選手は断じていない。そんな点を失うことは絶対にないと思われる松井秀喜氏は、これから長い間きっと日本や世界の若い人たちに大事なことを伝えてくれると信じている。
 松井さん、長い間ご苦労様でした、沢山の素晴らしいプレーをありがとうございました。

追記:私は2009年に彼がワールドシリーズで最高殊勲選手に輝いた時、彼をサポートし続けてきた金沢にある会社コマツが読売新聞に出した1ページ広告の写真を使ってブログを書いた。残念ながらそのファイルが失われ、書き直しをしていなかったためその写真が失われていたが、この度再びコマツが広告写真を出したのを機に(2012年12月30日)最初の写真とともに再度掲載しておきたい。このブログ2枚目の写真は2009年のもので“逆境を力に変えて”とある。今回のものには“ありがとう、私たちは、忘れない”と書かれている。それらは的確なコピーに違いないと心から思う。写真はクリックで拡大してご覧ください(2012年12月30日)。

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