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2012あざいお市マラソン(全国ランニング大会100撰)に二度目の挑戦

  • 2012/10/08 11:55

 暑い今年の夏が過ぎてやっと涼しい日々が来たかと思いきや、快晴の天気になると、ちょっと歳のせいかとも思うが、なぜか直射日光が肌にきつく感じてしまう。昨日10月7日は前日とはうって変わってそんな天候だった。きっと24、25℃はあったであろう。それは丁度昨年の大会とほとんど同じような状況になっていた(http://www.unique-runner.com/blog/index.php/view/57 )。
 昨年は心臓手術からの復帰戦のため少しペースを落とし気味にして、結局予定通り1時間59分で走った。しかし、前半のダラダラとして上り坂に苦労した覚えがあるので、「あざいお市マラソン」のHPから苦労して探し出した高低差のデータをまずご紹介したい。1枚目の写真はコースを模式的に示した図で、スタートして草野川を遡って図の一番上にある高山橋に至るおよそ7.5キロは上り坂である。この高低差がどれほどであるかは今回正式なデータが2枚目の写真のように公表されているが、グラフから読み取るとおよそ83メートル程だと思われる。そしてその後半部分で向かい風が吹き、その後15キロの辺りまで下りその後はゴール前1キロを除いてほぼ完全な田圃の中の平坦なコースである(1枚目の写真の下の四角い部分)。この遮蔽物のない農道でかなり強い向かい風や横風が吹いたのである。このコースはなかなか難しくチャレンジに値する。
 今回の目標はもちろん昨年のタイムを大幅に上回ることで、限りなく1時間50分に近くと内心意気込んでいた。これまでもこのブログで書いてきたように、脚を使わない、つまり大きな筋肉で走る、別の言葉で言えばハムストリング、殿筋や大腰筋を使って股関節を存分に動かして走ることを意識してきた。さらにこのレースを目標に気を付けたことは、高い視線を維持すること、そのために膝や足首を必要以上に使わないことである。まあ、簡単に言えば、脚を竹馬の竹のように使うことを意識してきた。このことはふくらはぎの筋肉を使いすぎないことでアキレス腱への負担も減らすことを目標にした。
 以上のことに気を付けて平坦なロードでトレーニングした場合、10キロ程度をキロ5分チョットでカバーすることはできていたので、今回コース前半の坂を考慮に入れてもできればキロ5分15秒は切りたいと考えてきた。でも、走り始めてその難しさを痛感した。今回3,600名に近い参加者があり最初の2キロほどは走るコースの確保にかなり苦労したことと、やはり7.5キロで83メートルの連続した上り坂の圧力は相当なもので、高山橋までにキロ5分15秒を切ることはかなわず、この時点で50分を切ることは諦めざるを得なかった。
 この21.0975キロのGarmin Forerunner 110による走行データは3枚目のグラフと4枚目のデータシートに表わされている。グラフの横軸はキロ数、縦軸の青は1キロごとに平均化されたラップ、赤は心拍計による心拍数、緑色は標高を表している。また、データシートはグラフのデータが細かくあらわされていて、1キロごとの詳細なデータを見ることができる。最初の2キロの厳しさと最後の5キロの苦しさをよくあらわしている。でも、ゴールが見え始め下り坂になる最後の1キロは、希望にあふれてほんの少しではあるが速度が上がる。なんともうれしい気分で走ったことを覚えている。結局、昨年よりおよそ7分更新して1時間52分13秒でゴールすることができた。
 なお、心拍数のデータが19キロあたりでぴょこんと上がっているが、これは多分汗で心拍計のベルトが下がってくるので手で持ち上げるのだが、その影響が瞬間的に出たものと思われる。ただ、昨年のデータと比較すると、速度をかなり上げた分、当然のように心拍数が数パーセントは上がっていることは事実である。なお、標高差データによる上りと下りが合っていないのは、GPSによる高低差の精度が少し低いことに起因している。また、距離表示の21.13キロは正確であるが消費カロリーについてはちょっと疑問がある。
 今回はジムの仲間と3人で参加した。スタート前の無邪気な写真が5枚目である。菅原氏は昨年のタイムを上回ったが足を少し痛めたようである。また若い大井さんは自己ベストを更新し、あと一歩で2時間を切れるところまできており、前途有望である。今回は参加賞としてT-シャツとあざいお市米の新米1.5㎏をいただき、重いながらもご満悦で、帰りはいつものように、今回久しぶりにハーフに参加した私の同僚の森川君とともに美味しい飲み物を楽しむことができた。来年、厳しいコースながらまた挑戦したい。なお、写真はすべてクリックで拡大されます。

追伸:消費カロリーのデータに少し問題があるが、これにはGarminの時計の再設定をやった時に、ユーザーデータの更新が十分ではなかった可能性があることが分かった。

京都・大覚寺 “観月の夕べ”

  • 2012/10/03 12:48

 先月末、関東に住む息子夫妻が休暇をとって京都に遊びにやってきた。インターネットを自在に操るいまの若い人たちは、この時期どこをどう観光すべきかを詳細に調査して旅をするようである。幸い彼らは同じ28日の午前に修学院離宮、そして午後には桂離宮を訪問することを許可されていて、その日の夕刻にはなんと嵯峨野の大覚寺の「観月の夕べ」に出かけるとのことであった。私は関西に来て20年以上になるが、そんなイベントは考えたこともなかったので、滅多にないチャンスだということで私たちもそれに参加させてもらうことになった。
 大覚寺については全く知識のない私は、いつものようにWikipediaに助けを借りた。Wikipediaは次のように言う。
「大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山と称する。本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺でもある。
(中略)
嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。嵯峨天皇が崩御してから30数年後の貞観18年(876年)、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。淳和天皇の皇子(嵯峨天皇には孫にあたる)恒貞親王(恒寂(ごうじゃく)法親王、仁明天皇の廃太子)を開山(初代住職)とした。」それゆえ大覚寺は皇族が住職を務めてきたいわゆる門跡である。
 さらにいろいろ「観月の夕べ」について調べてみると、それは嵯峨天皇が大沢池に船を浮かべて貴族や有名人と遊んだことが始まりと言われている。DigiStyle京都のウェブサイトによれば、「18時30分より満月法会が行われ、月を望む場所に設けられた祭壇に供物を供え、農作物の豊作と人々の幸せを祈願する。観月の夕べの期間中は、17時より法話やミニコンサートなどさまざまな催し物が行われるほか、大沢池にうかべられた龍頭舟、鷁首舟の船上で、お茶を楽しむこともできる。また、五社明神と宝塔前の広場にはいろいろな夜店も出店し、夜半まで賑わう。平安の王朝絵巻さながらに催される優雅なひとときを楽しんでみては。」(DigiStyle京都 http://www.digistyle-kyoto.com/event/nenjugyoji/post_575.html )
 この「観月の夕べ」イベントはかなりの人気のようで、舟席券を買うのに3時ころに大覚寺に行ったがすでにかなりの行列で、やっと7時台の乗船のチケットを手に入れることができた。それまでの時間私たちは五大堂をお参りし、御影堂で行われていた琴の演奏などを聞き、舟遊びの行われる大沢池の傍に立つ鮮やかな朱色の心経宝塔(1枚目の写真)の前に作られた席に座ってうどん、たこ焼きそしてビールなどをいただきながら、徐々に高く上がっていく美しい満月を眺めていた。1200年程前の皇族・貴族が楽しんだ満月を眺めているかと思うとなかなかの雰囲気であった。
 7時が近づいてきたので、法要と法話が行われた池に突き出た祭壇(2枚目の写真)の傍にある船乗り場に行ったところ既に長蛇の列で、法話による乗船の中断があったこともあり1時間以上待ってやっと乗船できた。舟は20-30人乗りの小舟で、龍頭舟と鷁首舟(3枚目の写真)の2隻が運行されていた。舟遊びはおよそ20分で、その間に抹茶と和菓子(4枚目の写真)が提供され、ちょっと狭い船内ではあったが楽しませてもらった。そして周囲1キロといわれる大沢の池を一周して戻ったのであるが、屋形船の屋根のために意外にも高いところにある満月を見るのはなかなか難しく、屋根がなければ最高だと思われた。
 それはともかく、雲ひとつない空の満月と全く無風で鏡のような水面に映った満月の雰囲気を皆さんにもお楽しみいただければと思う。是非来年に出かけられてはいかがであろうか。私はもし来年訪れるとすれば、舟ではなく、やはり心経宝塔の前の食べ物の席に座ってゆっくりとビールを飲みながら静かに観月を楽しみたいと思う。そんな空の満月と静かな水面に映った満月の両方が映った見事な写真を、今年の写真ではなさそうだが、大覚寺のHPからお借りした(5枚目の写真、http://www.daikakuji.or.jp/event/%E8%A6%B3%E6%9C%88%E3%81%AE%E5%A4%95%E3%81%B9/ )。左の方に私たちが乗ったような、提灯のついた屋形船が映っている。幸い今回は写真のように雲のかかってない、十五夜の満月を私たちは眺めてきたのである。なお、私がカメラを忘れたために、五枚目以外の写真はすべて若い方にスマホで撮っていただいた写真である。いつものようにすべての写真はクリックで拡大できる。

中国という国家における国内・国外人民の位置

  • 2012/10/03 09:06

 私は既に8月21日にこのサイトで、今回の中国、韓国における領土問題に関する反日運動について私自身の考えを述べた(http://www.unique-runner.com/blog/index.php/view/162 )。それ以降は反日運動は激しさを増し、時には中国各地ではまるで暴動といえる程度まで拡大したが、いまは若干抑制が効いて落ち着いてきてはいる。
 ただ、私にはこのような問題が発生するたびに気になることがある。それは今回のブログのタイトルにもしたことであるが、中国という国における人民が置かれた“位置”である。今回のことに関して言えば、1枚目の記事(読売新聞9月22日)の写真を見ていただければ分かるように、紛争地域である東シナ海や南シナ海に出る漁船に対してかなりの金額が当局から支給されているということで、同様のことは台湾の漁船に対しても巨大企業がスポンサーになっていると言われる。もちろん、漁民ではないが一般市民も同様の“支援”を受けているらしいことは、デモに参加する市民が観光バスのようなもので送り届けられている画像からも想像できる。要するに、新聞記事の見出しにあるように、「漁民」や「市民」は国家の先兵なのである。それは“愛国心”を求める国家からすれば当然のことなのかもしれない。
 しかし、外国に居住する中国人がどう動くかは、それは危うい問題である。例えば2枚目の写真で分かるように、サンフランシスコやニューヨークで華僑による反日デモが起こっている。あるいはしばしばみられる報道であるが、中国・温家宝首相は外国に出向いた時に現地の華僑の集会において中国の主張を述べている。今回の場合にはベルギーのブリュッセルで、あるいは数年前の反日デモの際にはニューヨークの中国人留学生の集会において激しい反日演説を行った。
 つまり中国国外に在住する中国系の人達は、その割合は分からないがかなりの人は中国の主張の代弁者であることは間違いないことらしい。私にはこれが一番気になることである。一般に華僑とは中国国籍で海外に住む中国人を指し、現地の国籍を取っている人を華人というようであるが、私はここではひっくるめて華僑と呼んでいる。
 華僑は欧米列強による中国支配、また日本による中国侵略など外国に翻弄された歴史の裏で多くの中国人が海外に出ざるを得なかった。華僑がどれほど世界に散らばっているかは、その詳細は難しいが、日本には70万人弱で東京では100人に1人は華僑ということになる。アメリカでは350万人と増え続けており、東南アジアは特に比率は高く、インドネシアには130万人以上在住している。ロシアなどは2050年には1000万人になるのではと恐れていると言われる。韓国はその地理的な影響や中韓の問題もあり極めて華僑には厳しい政策をとってきている。現在およそ24,000人ほどしかいないのはきわめて興味深い。その意味で、今回の日中韓の領土問題に関して中国と韓国の外相が共闘を語ったというのは、将来の韓国における華僑の進出という意味で極めて重要な意味を持つと考えるべきであろう。
 私の仕事との関係で思い出すのは、アメリカ国立衛生研究所における規制のことである。これは数年前までのことで今の事情は正確には分からないが、その研究所は増え続ける中国人研究者(留学生も含む)に悩み、研究所内ではアメリカ人が理解できない中国語での会話を禁止したのである。
 このような措置はアメリカの中国に対する警戒感を如実に表しているように思われる。上の新聞記事にもあったように漁民が中国の“先兵”であるとすれば、世界中に華僑や留学生として散らばっている中国人は、やはり有事には先兵として機能すると考えた方がよいのであろうか? そんなことを考えずに中国を含む外国の人たちと交流したいものである。

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