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「東日本大震災」 (2)超巨大地震と超巨大津波の強襲

  • 2011/12/16 18:15

 2011年3月11日、午後2時46分頃、私はパソコンの前に座って4月からまた始まる解剖生理学の講義のことを考えていた。その時東北や北関東地方は巨大地震に襲われていたのである。私は全く感じなかったが、友人の中には揺れを感じた人もいたし、後から分かったことであるが、大阪湾を埋め立てて造った咲洲にある高層ビルはかなりの揺れを感じ、大きな被害を出すに至ったのである。それほどの巨大地震であった。
 その後のテレビや新聞の報道は、ただ信じられない、その一言であった。そして、夜になっての気仙沼のあの津波とそれに伴う火災の映像はただただ信じられないというほかなかった。私はいまから16年前の阪神・淡路大震災を高槻で被災した。もちろん、当時私が住んでいた高槻・日吉台の官舎は玄関にひび割れが生じた程度であったが、その強烈な地震はいまでも忘れることが出来ないし、地震で大きな被害を受けた阪大豊中キャンパスの状況を忘れることはできない。また、大学一年に入った年の昭和34年9月26日の伊勢湾台風時の、あの強烈な風の恐ろしさは今でも覚えている。でも、今回の超巨大地震の被災者の感覚は、そんなものをはるかに超えるものであっただろうと思うと、お見舞いを申し上げる言葉もない。
 その地震は当初マグニチュード8.8と言われていたようだが、すぐに9.0に訂正された。なんと岩手沖から茨城北部沖までの南北およそ500キロ、幅およそ150キロに及ぶ、およそ3つの巨大な地震域がほぼ同時に起こした地震であったようで、およそ1000~1200年に一度の超巨大地震であったようである。また、それによって引き起こされた大津波は、歴史上初めてといってよいほど大規模に、しかも鮮明に映像として記録され、それが私たちに提供されたことによって、私たちに強烈な印象と恐怖を与えた。なんとこの巨大津波は、かってのチリ地震の時の逆に、ハワイやチリにかなりの被害を与えた。私はそんな滅多に起きない、未曾有の地震と津波という自然現象に遭遇したという自覚を持ってこの時代を生きたいと思っている。
 その巨大地震とそれによって引き起こされた巨大津波の発生と、それによる被害の大まかなところを伝えた翌日3月12日の新聞とその翌々日の日曜日3月13日の朝刊と特別夕刊の写真を掲載しておきたい。いずれも読売新聞であり、いまから見ても的確な報道であったことがわかる。すでに、それ以降最大の問題となっている福島第一原子力発電所の事故の様子が報道されている。
 私はこのブログで、被害の甚大さを書くつもりはない。亡くなった方や行方不明になっている方々の数は、私の思考限界を超えているし、被災者の数や被災地の面積なども同様である。それに関連した報道は、新聞やテレビが十分にやっていたしやってくれると信じている。ただ、書くとすれば、どこかおかしいと思うことを書くのみである。
 なお、「東日本大震災」という言葉は、いつだったかは忘れたが政府が統一して使い始めた名称で、当初はそれぞれのメディアが独自に、例えば「東北・関東北部沖地震」などと呼んでいたが、このブログでは後になって使われたいまの名前を使いたいと思う。

[簡易復元] 「2010 FIFA ワールドカップ 南アフリカ大会」に国中が沸いた!

  • 2011/12/14 11:13

(ワールドカップアフリカ大会についてはブログを幾つか書いたが、それらのファイルは失われたため、今回一つにまとめて新たに書き直す)

 このアフリカ大会については、近年その力を伸ばしつつあるアフリカ勢に敬意を表しつつ、そのアフリカでは未だサッカーワールドカップが開かれていない現状を考慮し、FIFAが、というよりはブラッター会長が開催国を持ち回り制にする考えを打ち出したことによって実現した。その運営能力、治安などに様々な疑問が持ち出されたが、1995年に南アフリカ共和国でラグビーワールドカップが成功裏に開催されたことが大きな支えになったと思われる。その有様は、クリント・イーストウッド監督による映画「インビクタス/負けざる者たち」(2009年作)に十分に表現されている。また、会場建設についても開催直前まで問題があったようであるが、それも無事解決され、2010年6月11日に無事開催された。
 岡田監督率いる日本代表チームは、1998年以来4大会連続の出場権を獲得したが、グループリーグではカメルーン、オランダそしてデンマークなどと同じグループEに入ることになった。しかし日本チームは開催直前になっても全く調子は上がらず、韓国代表との試合でも惨敗を喫し、ひとつも勝てないのではないかとサッカーファンをやきもきさせた。しかし、現地入りしてからの高地対策を含めた体調管理がうまく行き、ほぼ万全な状態で初戦のカメルーン戦を迎えることが出来た。
 カメルーン代表チームは2002年のワールドカップ日韓大会では大分県中津江村をキャンプ地に選び、到着が遅れたことやその村の住民と暖かい関係を築いたことで有名となったが、しかし同時にチームの能力としては「不屈のライオン」とも呼ばれて恐れられていた。
 上に体調管理が非常にうまくいっていたと書いたが、今回のワールドカップでは全体として、精力的にまた献身的に選手は走り廻って、守備に攻撃に貢献したと思われるがほとんど脚をつる選手がいなかった。その結果、どの試合をとっても、勝敗は別にして非常に良いゲームをしたといってよいであろう。そんな活気に満ちたゲームが、我々を熱狂させてくれた原因だったように思われる。
 1枚目の写真の上は、リーグ戦初戦のカメルーン戦を勝利した時の写真で(写真はすべて読売新聞の紙面である)、セットプレーからの本田の一撃である。下は2戦目のオランダでスナイデルの一発に泣いた試合であったが、白熱したゲームであった。2枚目の上はリーグ戦最後のデンマーク戦で、デンマークを圧倒して3-1で勝利して決勝トーナメント進出を決定したことを報じる新聞で、その下と3枚目の写真は決勝トーナメントでパラグァイにPK戦の末敗れたことを報道する新聞の写真である。
 4枚目と5枚目は決勝戦で戦ったスペインとオランダについての報道で、遂に最も美しいパスサッカーをするチームであるとされてきたスペインの優勝をたたえ、オランダの健闘を称賛するものであった。元東京ヴェルディ総監督の李国秀氏の解説を掲載したあるので参考にしていただきたい。
 このワールドカップアフリカ大会における日本の男子サッカーチームの大健闘が、今年の女子サッカーワールドカップドイツ大会での日本チーム〝なでしこジャパン”の優勝と、彼女たちの男子スペインチームのように美しいパスサッカーの勝利につながったように思う。このなでしこジャパンの優勝は、未曾有の大地震と大津波、それに福島第一原子力発電所の破滅的な大爆発という東日本大震災に沈んだ日本にとてつもない勇気と希望を与えたことを考えると、南アフリカ大会における男子チームの大活躍は、なでしこジャパンの大活躍を引き出したという意味でも大喝采を送りたい。

「東日本大震災」 (1)関連ファイルの復元について

  • 2011/12/11 10:05

 2011年9月初め、サーバートラブルによってそれまで蓄積されていたブログファイルおよそ130本が消失したことは何度も述べている。その中には2011年3月11日に突如起こった大震災についてのブログも含まれていた。その震災に対して私は直ちに反応した。私はその翌日からの新聞をしばらくの間すべて保存することとし、それ以来少なくとも朝刊と夕刊の第一面の写真を4月21日まで写真に記録し続けた。そして、それらの写真を参考にして、私が様々な現象について感じた感想、批判、あるいは同意などを率直に書いてきた。
 しかし、いま考えると事態はめまぐるしく変化し、今の状況、判断を抜きにして当時に書いたブログをそのまま復元することはできなくなりました。したがって、これから書く「東日本大震災」関連事項は、とりあえず当時どのように新聞が報道したかということが残るように、暫くの間は読売新聞の朝刊・夕刊の写真を適度に掲載してゆくことが中心になると思われる。ということは、もはや[完全復元]でも[簡易復元]でもない、普通のブログとして書く以外にはないと思われる。このことを頭に入れて、随時必要と思われた時点で私の想いを書いてゆきたいと思う。

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