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[簡易復元] 豪雨の甲子園でグランド整備を楽しむ

  • 2011/10/08 13:12

(これは2011年8月20日頃に書いたものであるが、簡単に復元しておく)

 第93回全国高校野球選手権大会は8月6日から15日間甲子園で開幕した。例年のごとく甲子園に出かける私としてはその機会を狙っていたが、最終日の前日の準決勝戦の2日目に出かけることにした。高校野球観戦は例年のこととて特に写真を撮ることも予定しなかったためにカメラは持参せず、また今年は東日本大震災のための電力事情切迫による早朝開始のことだけに集中してやってきた。
 少し記憶があいまいになってきたので正確ではないが、8時過ぎには球場に着いたがファンがいっぱいで大混雑。切符売り場に長蛇の列で、中央特別自由席(ネット裏で銀傘の下)に入ったのは8時半であった。比較的良い席に座って開始を待つこと1時間。確か開始は9時半であったと思う。対戦は、光星学院vs作新学院であった。
 開始がすぐに光星学院が先制し、試合は順調に進んでいたが3回頃だったであろうか、突然雨が降り出して試合が中断された。グランドキーパーの方々はマウンドとホームベース付近に大きなシートをかぶせて雨が上がるのを待っていた。そしてほぼ1時間かなりの雨が降り、試合再開が可能なのか私は心配になってきた。そこで思い立って持っていた携帯電話のカメラで写真を撮ることにした。特に画素数が素晴らしく大きいというカメラでもないので取りあえず撮っておくという感じで撮っていった。しかしそれがなかなか面白かったのである。なお、写真は解像度が悪いために4枚の写真を組み合わせて一枚の写真にしてあるのをお許し願いたい。
 雨が小降りになりだしたときの写真を組み合わせたものが一枚目の写真である。グランド全体が完全に水浸しなのがよくわかると思う。右上を見ると分かるが、暗くてライトが点灯されていた。そして雨が上がるとすぐにグランドキーパー15名が現れ、まずマウンドとホームベースにかぶせてあったビニールシートを順番に、水をこぼさぬように用心深く持ち上げ、ネット前まで持ってきてそこに水を流していた。その様子を映しているのが2枚目の組み写真である。
 その左下とその右の写真に白い四角いものが見えるであろう。それは、ベースほどの大きさで多分吸水性に優れたものを入れた袋のようなもので、それを水が溜まった各ベースの周りやマウンドの周りにおいて水を吸わせるのである。そしてそれに十分に水を吸わせた後で、そこに乾いた新しい土を入れ、いわゆるトンボでならしてゆくのである。沢山水が溜まった二塁ベース後方では、多分太い鉄釘を打ち込んで少し穴をあけ、そこから下の砂の層に水を流すようなこともしていた。
 その作業、15人全員で動き回って30分、見事に整備してゲームは再開となった。強打と好守備の光星学院は作新学院を圧倒して勝利し、陸奥に優勝旗を、と期待を抱かせる勝ちっぷりであった。3枚目の組み写真は、再開されたゲーム風景とグランドの外の風景の組み写真である。今年はどこにでも「がんばろう!日本」の横断幕が見える。
 その光星学院、20日の決勝戦では中盤から日大三高の打力と好守備に圧倒され、11-0と敗れて青森に優勝をもたらすことはかなわなかった。

[完全復元] 余部(あまるべ)鉄橋の2世代を見る

  • 2011/10/07 22:33

(この記事のオリジナルは2010年9月29日に書かれたものである)

 かって突風による悲惨な転落事故が起き、そんな事故を防止するべく新しい鉄橋が建設された現場を見たいと、好奇心旺盛は友人たちが現場(余部鉄梁、愛称余部鉄橋)を訪れ、その写真を提供された。その時の話を少しだけ聞きかじった私だがその日記をここに書いておきたい。
 余部鉄橋は山陰線の餘部駅(姫新線の余部「よべ」駅と区別するために違う字をあてたと言われる)-鎧駅間に架けらた高さ41.5メートルの鋼材の橋で、明治42年から2年あまりの歳月をかけ、アメリカから輸入された資材、33万円の巨費、延べ25万人を動員して明治45年(1912年)に完成した。朱色の橋梁や桁の美しさや当初東洋一(現在でも日本一)と言われた高さなどから人気を集めたが、昭和61年(1986年)12月28日午後、回送列車の客車8両が最大風速33メートルの突風にあおられて橋梁中央部分から転落した。その橋梁の下にあった水産物加工会社で働いていた主婦5名と車掌の1名が亡くなる惨事となった。
 その悲惨な事故と風による運休が多いことなどから新しい橋梁への建て替えが議論され、平成19年から3年の工事の後今年2010年8月12日に新しい橋梁への切り換えが行われた。明治45年から98年間の使用に耐えた鋼材に代わって鉄筋コンクリート製の橋梁となった。1代目の橋梁は、この場所が海岸のそばにあり、塩分を含んだ強風が吹きつけ、また雪も多いなどから建設当時から綿密な点検が行われ、必要に応じて塗装のやり直しや部材の交換などが絶え間なく行われてきたようである。これが転落事故以外の事故を封じ込めてきたのであろう。今年8月12日の新しい橋の運行記念として始発列車には地元の皆さん120名がお乗りになったようである。
 さて、1枚目の写真は、その橋梁の下の売店で売られている絵葉書の写真を拝借したものである(写真はすべてクリックで拡大可能)。桜の咲くころの写真のようで、朱色の橋脚が美しい。2枚目からは今回友人が撮影してきてくれた写真で、まずは駅名の看板である。余部ではなく餘部になっているのは上に述べた通りである。3枚目は下から新しい橋を眺めたもので、丁度運よく特急列車が通過中である。写真から分かるように、今回の橋梁には透明なアクリル板を使った防風構造が付けられており、これまで以上に安全な橋になったとのことである。
 4枚目の写真は残された橋脚などが写っているもので、多分この3本ほどの橋脚は記念として何らかの形で残されるようである。その上の部分では、5枚目の写真のように今もなお古い橋の部分の撤去工事が行われている。
 この新しい橋が安全で、いつまでも美しく、地元をはじめみんなに愛され続けることを祈りたい。

[完全復元] 古い映画の中にも、現代の世界が見える

  • 2011/10/07 16:48

(この記事のオリジナルは2010年8月27日に書かれたものである)

 私が日常的に時間を使っているのは、学生に解剖生理学や生物学を教えることとそのための勉強、秋から冬にかけてマラソンレースを走るためのトレーニング、それに好きな映画を衛星放送などからDVDに記録してそれをリストに整理し、空いた時間があれば観たい映画のDVDを取り出して、パソコンにつないだ少し大きめのディスプレイで鑑賞することである。
 硫黄島は太平洋戦争での最大の激戦地のひとつで、日本が後手に回り始めてからではアメリカに最も善戦した戦いの地であったと言われている。その戦いについては、最近ではクリント・イーストウッド監督がアメリカ側からと日本側からの2つの視点で「父親たちの硫黄島」と「硫黄島からの手紙」をいう印象的な映画を創ったことが記憶に新しい。しかし、日本の無条件降伏後4年後の1949年に「硫黄島の砂」(原題"Sands of Iwo Jima")が、監督アラン・ドワン、主演ジョン・ウェインで作られている。この映画は、厳しい訓練を経て戦う海兵隊員と彼らによって硫黄島のすりばち山に星条旗を立てるまでを描いていて、日本もフェアに扱われている印象である。この星条旗を誰がどのように立てたのかは、クリント・イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」に詳しいのでここでは割愛する。
 私がこの映画を観て驚いたのは、映画の最後に近いシーンで歌われた歌詞のことである。なぜか日常的によく聞く曲でありながらその歌詞は全く知らなかったが、その歌詞が翻訳されて字幕になったのを見たときにはなぜか不思議な感じがした(写真はいずれも画面から取得させていただいた。お許し願いたい。)。
 2枚目の写真にある歌詞から順にそれを書いてゆくと、
 
“モンテスマの王宮からトリポリの海岸まで
 我らは祖国のために戦う 空で陸で海で
 正義と自由と名誉を守るために
 我らは誇り高き合衆国海兵隊”

 これが1番の歌詞で、その冒頭に「モンテスマの王宮からトリポリの海岸まで」とあり、モンテスマは分からないトリポリはリビアの都市で、なぜここに出てくるのかが全く不可解であったので調べた。Wikipediaによれば以下がまず歌詞の日本語訳である。少し違うが大差なく、上の映画の画面からの歌詞は少し短縮されているようである。

1番
 モンテズマの間から
 トリポリの海岸まで
 我らは祖国のために
 空、陸そして海で戦う
 正義と自由を守り最初にたあたかうものとして
 そして我らの高潔な名誉を守るため
 我らが誇りとするその名は
 合衆国海兵隊

2番
 我らの旗は夜明けから夕日まで
 すべての風に翻る
 我らは銃を手に取って
 あらゆる気候と場所で戦った。
 遠くの雪の降る北国で
 そして日の照る南国の地で
 常に働く姿を見るだろう。
 それは合衆国海兵隊

3番
 我らが誇りをもって務める海兵隊と
 君の健康を祈願して乾杯!
 我らが生涯にわたって戦った多くの戦いにおいて
 我らは勇気を決して失わなかった。
 もし陸軍と海軍が
 天国を見上げたならば知るだろう。
 天国への道を護るのは
 合衆国海兵隊

 これを見れば、海兵隊が海外に出て戦う先兵としての誇りに満ちているのがよく分かる。それにしても「モンテスマの王宮」とか「トリポリの海岸」がなぜ出てくるのだろうか。アメリカ海兵隊は独立戦争当時の1775年に大陸海兵隊(大陸とはイギリス軍に対するアメリカ大陸の意味か)として組織されたのが最初であるが、大陸側の勝利が明らかになった後一時解散したが、1798年にアメリカ海兵隊として再建されたのが現在の海兵隊の元である。最初の海外派遣は早くも再建数年後の1804年、地中海の自由航行権に関わるもので、オスマン帝国(バーバリ諸国)との争いに僅か7名の海兵隊が派遣され、傭兵とともにトリポリの要塞を占領してその戦いに勝利したのが最初とされる。 また、長いスペインからの独立戦争を戦って独立したメキシコとは、その独立戦争当時から西海岸や南を目指すアメリカとの争いが絶えず、それが米墨戦争(アメリカ―メキシコ戦争)として1846年に勃発した。そして1847年にメキシコシティのチャプルテペック城が陥落して終了に至った。これによってメキシコは領土の1/3を失い、アメリカはカリフォルニアやルイジアナなど多くの州を獲得することになった。その際、そのモンテスマ王宮を陸軍より早く最初に占領したのが海兵隊だったのである。その後第一世界大戦、中南米諸国との争い、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、グレナダ侵攻、イラク戦争、アフガニスタン戦争など必ず戦場を海外に求めたアメリカの先兵としての強烈な役割を先の海兵隊讃歌の歌詞が表しているのである。
 このように見てくるとアメリカの海外との摩擦の正面に立っているのはいつも海兵隊である。その摩擦はいまも現実のものとして燻ぶり続けている。日本の沖縄にはこの強力な海兵隊が駐留している。海兵隊は外国との戦争の正面に出て行く部隊である。それがなぜ沖縄に必要であるかはきちんとした議論が必要だと思われるが、抑止力として必要であると説明するのは自民党政権も民主党政権も変わらないのはなぜか。私はもちろんであるが、沖縄県民はもっと深刻にその問題の解決を望んでいると確信する。

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