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やはり、日本は失敗のできない国になってしまってたんだ!

  • 2016/08/26 10:05

 日本が41個という大量のメダルを獲得して沸いたリオデジャネイロオリンピックは終った。始まるまでにあれほど危惧されていた施設や運営面での数々の問題は、多少のトラブルはあったようであるが全体から見れば些細なことと思われ、リオオリンピックは成功裏に終ったといってよい。
 また競技面でも様々な盛り上がりがあり、世界中のスポーツファンを喜ばせたことは疑いない。特にオリンピック好きと言われる日本人にとってこの2週間は特別の盛り上がりを見せ、マスメディアの騒ぎ方は半端ではなく、時には号外新聞まで出たことがあった。それぞれの競技に必死に取り組んできたすべての選手にここで感謝の気持ちを表したいし、メダリストたちにはおめでとうと申し上げたい。
 さて、スポーツ好きの私はこれまでホームページやブログでスポーツに関していろいろな意見を表してきた。でも、今回究極のスポーツの祭典であるオリンピックを見てきて、応援する立場、あるいはスポーツをする私自身の立場についてなんとなくすっきりしないのである。私は根っからのスポーツ好きで、特に野球は子供の時からたのしんできた。プレーすることはもちろん、観戦することも大好きでどこのチームの試合であるかを問わず、野球の試合であれば見ていて楽しい。だから、テレビで放映されるプロ野球の試合は他に見るものがなければどんな試合でも観るのである。それは一つ一つのプレーを楽しんでいるのだと思う。そんな私なので野球の試合であれサッカーの試合であれ、静かにじ~っとかたずをのんで見ている。決して騒ぎ立てることはしない。
 そんな立場から野球場やサッカー場や、ましてやオリンピックにおける選手と応援する側(テレビの前を含めて)の関係を見ていると複雑な気分になる。たとえば、厳しい国内あるいは国際的な選考を経て出場権を獲得した選手たちがどれほどの努力を払ってきたかは想像に難くない。今回男子卓球単複でメダルを取った水谷選手が言うように“命がけで闘ってきた”のであろう。そんなことを知ったうえで彼らの活躍を心から願っている。それはつまり彼らの人格形成も含めた努力を認めたうえでの話である。だから、試合の結果勝っても負けても彼らの存在を、さらに彼らの活躍を正当に評価するのが当たり前なのである。つまり、彼らが負けたからと言って騒がしい批判の対象になるのではなく、勝ったものだけがもてはやされるのではなく、敗者にも敬意が払われなければならないはずである。
 しかし事実はそうなってはいない。頑張った男女のマラソン代表はいずれも“惨敗”と報道される。マラソンを走る私には、あの高温の中どれほどの苦しさであったのだろうかと心が痛む。ゲームの後にマスメディアに引っ張られるのは“メダル”を手に入れたものだけである。メディアと対等の立場にいる選手たちであればそれはそれでよい。でも、今のメディアは彼らの王様であると思っているから具合が悪い。そんな習慣をつけたのは誰なんだろうか。私はそれはマスメディアやメダルの数を国力の表現と考えて密かに国威発揚に利用したいとする国の支配層だろうと思うし、それを良しとしてきた我々“ファン”と称する者たちだろうと確信する。オリンピックが近づくとマスメディアやオリンピック委員会の首脳陣は、当たり前のようにメダルの数の計算を始める。一体オリンピックとは何のためにあるのか?
 福士加代子をはじめとして3人の選手が参加した女子マラソンの結果は、望みどおりではなかった。14位でゴールした福士選手は、「金メダル取れなかったあ! ほんとしんどかったあ!」「でも金メダル目指したから最後まで頑張れました」と絶叫した(www.asagei.com/excerpt/64487 )(1枚目の写真はゴール直後の写真、産経デジタル)。この結果と発言にネットは大騒ぎになったという。自分の結果もわきまえずとか、なんという能天気なとか、KYであるとか、代表選考でもめたとか、とにかく言いたい放題で、それ以来福士選手の動向は少なくとも私の目や耳には入ってこない。これまで長い間日本の中長距離界を牽引してきた福士選手に対して、残酷すぎる!!!
 一方、卓球シングル女子単での福原愛選手の活躍は見事で、あわやと思ったがやはり中国と北朝鮮の壁に跳ね返されてしまった(2枚目の写真、デイリー・スポーツ。3枚目はその敗戦にめげず団体でメダルを取った3人、朝日デジタル)。シングルスで敗れた時彼女はインタビューに答えて、「・・・金メダルを取れなくて申し訳ない・・・」、「五輪はメダルを取らないと意味がない」と苦渋の発言をした。また、レスリング女子53キロ級で吉田沙保里選手は米国の若いヘレン・マルーリス選手に敗れ銀メダルに終わった(4枚目の写真、朝日デジタル)。そのあとのインタビューで、「銀メダルに終わってしまい、申し訳ない。日本の主将として金メダルを取らなくてはいけないところだったのに…。取り返しのつかないことになってしまった。ごめんなさい…」と話した後、泣き続けるしかなかった。
 ここに書いた3つの例は、それぞれが極限の闘いの後に気力を振り絞って発した言葉であった。そんな状況の中でどんな不用意な、謝罪ばかりの言葉が出てきても不思議ではない。これまで彼女たちに私たちはどれほど勇気づけられ、元気づけられ、また癒されてきたのだろうか。彼女たちのこれまでの命がけのような戦いに寄り添いたいものである。何故に、物言いが気に食わないからと簡単にバッシングし、謝罪と聞こえるような発言をさせてしまうのだろうか。日本の社会はなぜこれほどまでに冷たいのであろうか!いや、冷たくなってしまったのであろうか?
 この例は、選手と彼らを取り囲むメディアや国民とは対等でないことを物語っている。支配層や国民は選手をオリンピックに行かせてやっていると思い、選手の方も行かせてもらっているといつの間にか思い込んでいるのである。だから、「申し訳ない」「ごめんなさい」と自然に出てきてしまい、そしてそう言わなかったときには上の立場に立ってしまっていた方にはカチンとくるのである。
 2013年、「『スポーツ権』の人権性に関する考察」という論文が発表されている(T. Matsumiya, The annual reports of health, physical education and sports science, vol. 32, 1-12)。そこには次のような文章がある。「1978年にユネスコが採択した『体育およびスポーツに関する国際憲章』には『体育・スポーツの実践はすべての人にとって基本的権利である』」と記されている。日本では憲法13条の幸福追求権などとの関連で議論が進められていていまだ明確ではないが、その方向はユネスコの憲章と同じ方向を向いているといってよい。つまりスポーツを楽しむためのハードやソフトの整備は国や自治体の責任においてなされるべきで、その内容の高度化の一環としてトップレベルの選手の育成や国際大会への派遣が行われていると、私は考える。
 一方、多くの選手は企業からのサポートを得て活動を行っているが、これとて企業の社会的貢献事業の一環としての「企業メセナ」との概念の範疇で行われているのである。そう考えると、派遣されている選手が国や地方自治体、広く見て国民、あるいは企業に対して感謝こそすれ卑屈になることなどまったくないと私は考えている。
 私が残念に思うのは、期待されたような結果を出せなかった選手らは、インタビューに際して総じて謝罪の言葉を発することである。その理由にはインタビューする側のまったく内容のない質問も大きく影響しているが、やはり上にも書いたように無意識に自分の立場の弱さを感じているからだろうと思われる。このような状況が続くことの問題の一つは、結果が思うように出なかったことの原因の解明が結果として隠されてしまうことにあるように思う。これは進歩にとって強敵である。
 近年、選手のためにならない状況にオリンピック運動が落ち込んでいることは、最近特に大問題になっている国家が関与する組織的ドーピングにも現れている。これまで日本の選手は非常にクリーンであるが、選手の自覚のいかんによってはどこかの国々と同様にそれに巻き込まれることがないとは言えない。メダルの数をすぐに問題にしたがるマスメディアや国の上層部を持つこの日本とて例外ではないであろう。最近の賭博問題然りである。
 私は早く、あの天真爛漫な側面を持つ福士加代子選手の元気な姿に会いたい。最後に、最も私を感動させたバドミントン女子ダブルス高橋・松友ペアの最後の勝利の瞬間の組み写真を一枚残しておきたい(朝日デジタル他)。

付録:次の2つ要望を箇条書きで言っておきたい。
 ①選手へのインタビューを担当する多数のアナウンサーの発する質問に内容が全くないのはどうにかならないか。②プレーの切れる野球などの応援では、その間に応援をし、プレー中は応援を止めてプレーの音を楽しめるようにしてほしい(テニス競技は参考になる)。必要以上の騒音は音を通してもプレーを楽しもうとする観客にとって最悪である。応援団というのはプレーを楽しまない人々のように思える。

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