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平昌冬季オリンピックは終わった、オリンピックってなんなのだろうか?

  • 2018/03/02 11:11

 平昌オリンピックは、国家予算に響くほどの巨費をかけ、またさまざまな問題を抱えながら、とにもかくにも成功裏に終わったと評価してもよいのであろう。そう言えるのは、世界のトップレベルのアスリートがこれまでの努力の成果をかけて闘う様子を私たちはテレビを通してではあるが身近に感じることができたからである。もちろん、国家ぐるみのドーピングとしてロシアの選手団が参加を拒否されたため個人レベルでの参加にとどまったことは記憶に新しいし、韓国と北朝鮮が朝鮮半島の南北融和という相変わらずの看板を持ち出して北朝鮮選手団や応援団などの参加や南北合同チームの形成などの突然の混乱に私たちは驚かされた。しかし、それらの問題は極度にグローバル化した経済的基盤の上に乗っかっているこの世界情勢の中では織り込み済みのことで、オリンピックというスポーツの世界だけがそれを免れ、純粋なアスリートだけの場としての存在が無条件に許されるわけはないであろう。しかし・・・である。このあたりのことについて読売新聞・編集委員の結城和香子氏が彼女の見解を述べている。それが写真の記事である(これは紙面をスキャナーでスキャンしたものである)。
 結城氏はその中で、スポーツの本質を突き詰めると、それは「『ルール』の前の公平さだ。すべての者が違いや立場を越えて、一つのルールの下で公平に競い、勝敗を受け入れる。そこに美しさがあり、違いを超越する力がある」と言う。そしてドーピングは、シンプルで最も美しいそのスポーツの本質を、変えてしまう行為だと断罪する。私はこの指摘に完全に同調できる。しかし、現在のような極度の競争社会にはまり込み、様々な二極分化が進んでいく世界ではそこから抜け出す、あるいは這い上がるためのあらゆる手段が選手やコーチ、また国家などによってひそかに企てられるであろうことも想像に難くない。近い内には遺伝子によるドーピングが現実のものとなるのは間違いない。それを排除するには通常の薬物検査の方法論を越えた異質なものにならざるを得ないであろう。
 それにもかかわらず我々はオリンピックゲームを楽しみにしている。誰しもが感じるように最近の国際情勢はますます閉鎖的になりつつあり、「アメリカ ファースト」に代表される傾向が強まっている。さらに移民排斥運動が世界中に蔓延しつつあり、人的交流という意味でも閉塞感が著しい。アメリカのトランプ大統領はTPPからの離脱、パリ協定からの離脱、カナダやメキシコとの通商協定の再交渉、ユネスコからの離脱やアメリカの言うことを聞かない国への援助停止の脅し、などなどアメリカファーストを実践するためにはいかなる手でも使おうとする。そんなアメリカはしかし平昌へ最大の選手団を送り込んできた。何故か?
 簡単に考えれば、それはきっと国力の誇示などであったりはするであろう。しかしもっと考えれば我々が孤立主義的あるいは内向きのあり方では得られない何かがスポーツ、特にオリンピックのような国際大会には隠されているからだろうと思われる。そして、それを個人的にも国家的にもあるいは民族的にも、それはアメリカだけにとどまらず日本も含めて世界中で、それをわがものとしたい欲望に駆られるのであろう。
 私は数日前から日本オリンピック委員会(JOC)のホームページ(https://www.joc.or.jp/olympism/coubertin/ )を眺めている。そこには「クーベルタンとオリンピズム」と言う記事があり、上の問題に対するヒントが隠されている。近代オリンピックの父と言われるクーベルタン男爵(2枚目の写真)の言葉、「オリンピックで重要なことは、勝つことではなく参加することである」は私などは子供のころから教えられその大切さを忘れることはなかった。しかし、そのJOCの記事を読んでみるとこの言葉は彼の捜創作ではなかったという。そこには「英米両チームのあからさまな対立により険悪なムードだったロンドン大会(1908年)中の日曜日、礼拝のためにセントポール大寺院に集まった選手を前に、主教が述べた戒めの言葉でした 」とある。そして、「オリンピックの理想は人間を作ること、つまり参加までの過程が大事であり、オリンピックに参加することは人と付き合うこと、すなわち世界平和の意味を含んでいる」と考えていたクーベルタンはこの言葉に感動し、以後その言葉を引用して「人生にとって大切なことは成功することではなく努力すること」という趣旨のスピーチを行なったという。もう少しその記事を引用しよう。
 「スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」という、クーベルタンが提唱したオリンピックのあるべき姿(オリンピズム)は、各国が覇権を争う帝国主義の時代にあって、実に画期的なものでした。その後、2つの世界大戦による中断や、東西冷戦によるボイコット問題など、オリンピックはいつも時代時代の社会情勢に左右され、そのたびに「あるべき姿」が問い直されてきました」とある。そして上のことを守りつつ、さらに結城和香子氏が述べたように高潔性(インテグリティ)を守り、向上させることがこの分断と孤立主義の時代のオリンピックに課せられた今日的意義だと私は考えたい。

 私はこのブログを書いていて、何も新しいことはなくここに紹介したJOCの記事そのままでなんだか気恥ずかしい。いまいい加減年寄りになってしまった私はただただ自分史に残る後悔の塊である。せめてその中の一つでも前に進めるよう“努力”しなければと、オリンピックで頑張ったアスリートから学びたい。だから、書いているのかも。

追記:直接関係はないが、私は15回連続で長野オリンピック記念長野マラソンにエントリーし、そのほとんどに出場している。この大会は、オリンピックという言葉の使用が許されている唯一の大会と言われているらしい。その大会で参加賞としていただくT-シャツにはいつも次の言葉が書かれている。“Unite Japan, Unite the World"(03/02/2018)

追記2:ひとつ書き忘れていたことがあった。それはクーベルタンがなぜ紹介したような考えを持つに至ったかについてで、JOCの記事の中にあった。それは当時のフランスの若者の姿が活発に自主性を持ってスポーツをするイギリスの若者とは大違いで、「服従を旨として知識を詰め込むことに偏っていたフランスの教育では、このような青少年は育たない。即刻、スポーツを取り入れた教育改革を推進する必要がある」と考えたという。それを思うと今の日本のことを言われているようで、スポーツを考えるレベルが違っていたことを教えられた。つまり、日本には二流のスポーツ文化しかないことを示しているように見える。(03/03/2018)

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