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日大アメフト部による悪質タックル事件から見える日本社会の構造

  • 2018/05/27 02:14

 タイトルは「日大アメフト部による・・・」とし、「日大アメフト部員による・・・」とはしなかった。お読みになる方には察していただけると思うが、この事件はタックルした部員一人の問題ではないからである。事件は、5月6日の日体大vs 関西学院大のアメリカンフットボールの定期戦で起こった。もはやこのブログを読んでくださる方のほとんどはご存じだろうと思うが、アメフトゲームの中心的なプレーヤーの関西大QB(クォーターバック)がパスをして完全に無防備の状態になった2秒後に、日大のディフェンスの選手が後ろから猛タックルを浴びせたのである。ネットではこの動画がアップされ、レイトタックルでもアメフトでもなく、ただの暴力だと書きたてられている。確かにそうである。
 アメリカンフットボールというゲームは、ラグビーと並んで最も激しいコンタクトスポーツと言われ、それだけに厳しい規則によって選手を守ることで知られており、毎年ルール改正が行われているが、それでも選手の怪我が絶えないのも事実である。私はアメフトにそれほど詳しくはないが、それでも大学のアメフトはしばしば観戦した経験があり、今回のように全く無防備になったQBを後ろからタックルというようなケースはもちろん見たことも聞いたこともない。問題はなぜそのようなありえないようなプレーに至ったかである。

 この事件から2週間もの間日大アメフト部のHPに比較的簡単な声明が発表された以外には事件の全容解明に日大が有効な行動を起こさずマスコミによる報道ばかりが過熱した。そんな中思わぬことに5月22日悪質なタックルを浴びせた選手本人が弁護士とともに記者会見に臨んだのである。よく出てきたとこれには私も驚いた。1枚目と2枚目の写真は、それを報じた5月23日の読売新聞朝刊の記事である。細かいことは抜きにして要点は、危険なタックルに及んだのは、監督やコーチから「相手QBをつぶせ」との指示があったとし、またそのような指示には逆らえない立場に追い込まれていたことを詳細に明らかにし、さらに日大アメフト部では監督やコーチの指示に逆らうことは難しく、監督とコミュニケーションをとれるような関係は存在しないと語った。
 この冷静で、時系列を詳細に追って語った当該選手の会見に危機感を抱いたのであろうか、翌23日に急遽日大アメフト部の内田監督と井上コーチが会見を行った。それを報道したのが3枚目と4枚目の写真の記事(読売新聞24日朝刊)である。当該学生の会見に比べて明らかにしどろもどろで明快さを欠いたが要点は、危険タックルについて指示を否定したが、「QB潰せ」発言を認めつつ、「けが目的ではない」とあいまいな見解を述べるにとどまった。つまり、監督・コーチとしては選手に気合を入れるだけのつもりであったが、選手はそのようには受け取れず「けがをさせてこい」と受け取ってしまったという言い訳であった。私から見れば、彼らにはチームにコミュニケーションの基盤が存在しないという認識が全くなかったと言うしかないのである。
 2つの会見と様々な報道を通じて分かったことは、「コミュニケーションの基盤が存在しない」と選手は感じ、指導者たちは「結果としてコミュニケーションがうまくいかなかった」と述べ、どちらもコミュニケーションつまり意思疎通が課題だとは認識しているらしいことであろう。私の想像で言えば、日大アメフト部の指導者たちは彼らが考える内容を「有無を言わせず伝える」のがコミュニケーションであるが、受け取る側のまだ成長過程にある選手たちは指導者が考えることを「理解する」ことがコミュニケーションであると思っている節がある。これは当たり前のことだと考えるが、この違いに日本のスポーツ界に古くから存在する、つまり方針や意志は常に上から下に伝えられ、流れるものだとする「上意下達(じょういかたつ)」の考え方が潜んでいるように思われる。

 日本におけるスポーツは、もとはと言えば明治時代から国の軍事力強化に向けての兵士の体力強化目的で学校において「教育」の一環として始められた「体育」に根ざしている。したがって、日本ではスポーツは学校教育の一環であり、「教育的観点」が持ち出され、両者は一体化して語られるのが常である。特にそのことが有名で目に付くのはあの高校野球であるが、大学におけるスポーツでもそれは例外ではない。要するに、以前から絶えず言われてきたことであるが、日本は縦割り社会で基本的には年功序列の社会である。これが最も色濃く残っているのが経験がものを言うスポーツ界で、監督やコーチは絶対の権力者である。この構造に割って入るのは学生・生徒はもちろん親も子供を人質にとられていてよほどのことがない限りものが言える状況にはない。
 日大の指導者たちは言葉が流れていればコニュニケーションが存在すると考えているのかもしれないが、本当のところは双方向に言葉が流れて疑問を明らかにする「議論」があって初めてコミュニケーションなのである。時間が刻々と流れる試合の中ではそれは難しくとも、その前段階の練習の中でこそ時計を止めて「議論」が行われるのでなければならない。加害者になってしまった当該学生は、指導者との間にそのような関係は存在しないと述べていた。もともとコミュニケーションは存在していなかったのである。それがあってこそ初めてスポーツが教育の一環だと言われても納得できるが、それがなければただのパワハラの世界である。

 いま鮮明に思い出すことがある。私や家族は今から30年以上前に仕事の関係でアメリカカリフォルニアにしばらく滞在したことがある。3人の子供たちが小中学生のころである。彼らは地域のサッカーのクラブチームに所属し、そこでの活動を通して地域になじんでいったのである。私もサッカーが好きで彼らのゲームをしばしば応援に出かけていたが、日本では見られない面白いコーチ(監督)と子供たちの関係を知って驚いた。コーチが試合の前後やハーフタイムに子供たちに様々な話をすることは日本と同じであるが、日本と全く違うのは、コーチは必ず子供たちに意見を求め、彼らに発言させるのである。日本では監督が「わかったか!」と言えば子供たちは「はいっ!」と元気よく声を上げておわりで、それは高校野球のベンチ前で繰り返されるのと同じである。
 つまり、私が言いたいことは、アメリカなどにおける子供に対する教育指導で最も重要と考えられることは、子供に「自分で考える力」を身につけさせることにあるように感じられる。だから、子供であっても大人であっても彼らは積極的にものを言う習慣が身についていると言って過言ではない。それに対して日本の子供たちはものを言えない、議論ができないように感じられ、スポーツ選手もその例外ではない。特に絶対的な権力を持つ指導者の元にいるスポーツ選手(学生・生徒など)は何も考えられなくなる“恐怖コーチング”の世界にはまり込んでいると指摘する記事がウェブに掲載された。中竹元早大ラグビー部監督の主張で、私は完全に同調できるhttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180525-00010001-binsider-soci&p=1 )。

 昨日、遅ればせながら日大学長が記者会見を行い、あるいは日大アメフト部が関西学院大アメフト部に回答書を送ったようであるが何も事態が好転することはなさそうである。私がこのブログのタイトルに「・・・日本スポーツ界の構造」ではなく「・・・日本社会の構造」としたのは、スポーツ界の構造は基本的には社会の構造と同じと考えるからである。

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