[完全復元] 9年連続出場の長野オリンピック記念長野マラソンを戦う
- 2011/09/30 09:33
(この記事のオリジナルは2010年4月20日に書かれたものである。なお最後に追記あり)
2010年4月18日の第12回長野オリンピック記念長野マラソンに参加すべくその前日の土曜日、高槻から京都そして新幹線で名古屋、さらに特急「しなの7号」を乗り継いで長野を訪れた。途中沿線の至る所が雪景色であった(1枚目の写真)。たどり着いた長野駅前のホテルでいただいた信濃毎日新聞には、その日の早朝から長野市や諏訪市で41年ぶりの遅い記録でかなりの雪が降ったとの記事が出ていた(2枚目の写真は長野駅での歓迎の催し)。
ビッグハットでの受付を済ませた後、毎度のことながら善光寺を訪れて参拝しないとことは始まらない(3枚目の写真)。そこ無事感想と家族の安全をお願いし、参道のお店で大好きな八幡屋の唐からしを買って明日のレースに備えるのである(4枚目の写真)。今回も昨年同様、息子、娘、友人、それに私の4人の参戦であった。夕食をともにしながら、リタイアしないで最善を尽くすにはどうするかを話し合った。みんなそれぞれの想いを語り、明日の健闘を誓った。いつもそうであるが、何が起こるか分からないフルマラソンなので、ある意味必死の覚悟である。それにしても夜は厳しい寒さであった。
当日の朝、雲ひとつない快晴で天気予報通り1℃だったのであろうか。JRでスタート地点のある北長野に行き、歩いて会場の長野運動公園に着いた。着替えてウォーミングアップをし、8時30分のスタートを待った。多くのゲストの中には浅井えり子や高橋尚子さんらもいた。号砲一発スタートした。スタート時には既に10℃を超えていたとのことであった。5枚目の写真は、スタートを前にあわただしく動き回るランナーたちである。
私の戦略は次の通りであった。まれにではあるが起こる不整脈を避けて完走するために思い切ってスピードを落とし、5キロ当たり6-6.5分で安定して走り、遅くとも4時間半でゴールすることを目指した。でも、結果は惨憺たるものだった。ここに自分のためにもこれをお読みになる皆さんのためにも、最初の1キロからとまことに細かいが、データを書いておきたい。データはキロ当たりの何分何秒と括弧の中に5キロ当たりのラップを書いておく。6:10、5:50、5:46、5:55、6:00(29分42秒)、6:20、6:00、6:00、6:03、5:50(10キロまでの5キロ、30分13秒)、6:08、5:58、6:05、6:07、5:52(15キロまでの5キロ、30分13秒)、5:56、6:04、6:19、6:04、6:08(20キロまでの5キロ、30分33秒)、5:59、6:01、6:14、6:19、6:18(25キロまでの5キロ、30分53秒)、6:36、6:49、6:49、6:54、704(30キロまでの5キロ、34分15秒)、7:34、7:50、10:62、9:07、9:42(35キロまでの5キロ、44分16秒)、9:39、8:43、10:01、9:44、937(40キロまでの5キロ、47分48秒)、そしてゴールは4時間59分02秒(データは手元の時計と速報値から算出)。
およそ30キロまでは思惑通りであったが、その直前から腸脛靭帯炎らしき痛みが出始め、特に股関節部分が強く傷んでしまった。この時、例の不整脈が出ていたかどうかは不明確であるがなかったような気がする。とにかくほとんど走ることができず最後のおよそ10キロの8割は歩いていたと思われる。最初は余裕で大丈夫と歩いていたが、よくよく考えると制限時間5時間の意味がひしひしと感じられるようになってしまった。やむなく無理は承知で時々走り、計算ずくで制限時間ギリギリで駆け込むことができた。あぁ、なんとうれしかったことか。それにしても30キロを境にしての急激な落ち込みは改めてフルマラソンの難しさを思い知らされた思いであった。
私の70歳台でのチャレンジは、幾つまでフルマラソンを4時間台、ハーフマラソンを2時間半までで走れるかということにしている。さっそく崖っぷちに立たされた気分である。心を引き締め、努力を積み重ねたいと思っている。走った後にみんなで急ぎ長野駅に戻り、いつもながら走った後のおいしいビールに浸った後、みんなと別れて「しなの22号」に乗り込んだ。その車中、ジムで一緒にトレーニングをしている仲間からの完走祝いのメールに対して完走直後の感動さめやらぬ気持をそのままメッセージとして送った。それに少し加筆して転載することとした。アルコールの影響で僭越な部分も、高揚した気分が現れた部分もあるが、その時の気持ちとしてお許しいただきたい。
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「皆さんにまとめて返信させてください。先ほどまで飲んでいたビールのなんと美味しかったことか!まだ足りなかったので今乗り込んだしなの22号にも缶ビールをめずらしく持ち込みました。
さて、今日の目標は、不整脈を避けて完走することでした。そのためにスピードを落とし、キロ6-6.5分にセットしました。これが見事に当たり不整脈を回避できました。25キロまではピッタリのペースで5キロ30分のペースを刻みました。我ながらピッタシで悦に入って走っていました。が、何事もすべてはうまくいかぬもの。25キロ過ぎから両方の股関節が重くなり、30キロ過ぎからどうにもならなくなってしまいました。そこで娘に抜かれてしまいました。彼女もひどく疲れていそうでしたが止まらず行ってしまいました。それからが地獄でした。
いわゆる腸脛靭帯炎でまったく走れなくなり、タダ歩いていると制限時間5時間に引っ掛かってしまいます。こんな経験は初めてでしたね。後ろが気になってしまうのです。ネットでタイムを追跡されていた皆さんも気が気ではなかったことと思います。私が一番心配していました。あまり無理をするわけにもゆかず、ほとんど歩きながらも時々小幅で走ってタイムを稼ぎました。ほぼ10キロをこの調子で何とかし、やっとの思いでゴールにたどり着けました。ゴール直前では高橋尚子が待っていてハイタッチをしてきました。ゴールには息子と娘、それに友人が首を長くして待っていてくれました。フルマラソンには何が起こるか分かりません。それに臨機応変に対処し、生き抜くしかありません。それに対応できた時に、本当の達成感が待っています。今回は初めての制限時間ギリギリ(本当は多分まだ10分ほどはあった)の経験をし、本当に窮地を脱した感動がありました。また沿道の心からの応援にいつもながら感動しました。タイムは多分4時間49分頃だと思います。この大会の正式の制限時間は5時間でした。お陰でフィニッシャーにだけ与えられる大きなタオルを2年ぶりにいただけました。
皆さん!タイムの問題ではないのです。是非自分で、自分の手で積極的にチャレンジして、本当の感動を手に入れてください。他人のやることで感動を手に入れることはできません。皆さんはもはやひとの助けを借りる歳ではありません。私はいまこうやって書いていても、私の名前を叫んで(パンフを見てゼッケン番号から名前を調べて)応援してくれた人を思い出すと涙が出ますし、道端で簡易椅子に座って声を出さずに、タダ歩き続ける私を見つめて小旗を振り続けてくれた年老いたおばあさんの顔を忘れられない。皆さん、やりたいことを先送りせずに、しっかりやってくださるようお願いします。これが今日苦しい時間を過ごしてきた私からのメッセージです。」
長野からの帰り、駅の階段を降りるときにはカニのように降りていた私ですが、一夜明ければまあまあ歩けるほどに回復しており、それほどのダメージではなかったのが幸運でした。少し疲れをとってからまたトレーニングを始めたいと思う。さもなければ加齢によって体力は低下の一途をたどることは請け合いである。なお、最初にこの大会に参加した第4回の報告は、http://www.unique-runner.com/nagano.htm にある。
追記:この時から1年半たった今でも、応援してくれたあのおばあさんの様子などを忘れることはできない。小さな苦境であったも苦境に立った時に遭遇したうれしいことは、忘れられない。今年もそれを味わいたかったが東日本大震災の影響で中止となった。その時に送られてきた私のゼッケンのブログも、近いうちに再現できればと思っている。(2011年9月30日)