[完全復元] 猛暑の高槻から、緑鮮やかな洛北・大原へ(2)三千院門跡
- 2011/10/07 09:04
(この記事のオリジナルは2010年8月24日に書かれたものである)
緑美しい阿弥陀寺から鯖街道を戻り三千院を訪れた。街道沿いにある民間の駐車場からおよそ600メートルの細い坂道を、その脇に店を開く多くの土産物店や茶室などを物色しながら登っていくとそこには大きな山門が開いていた(1枚目の写真)。そこを入ると、思いがけず広い傾斜地に多くの建物などが立っていた。当たり前のようにWikipediaに尋ねると次のように言う。
「三千院は、また梶井門跡と呼ばれ、古くは東坂本に里坊がありましたが、中世以降、大原魚山の来迎院、勝林院、往生極楽院などの寺でらを管理するために大原に政所を設けたのが前身です。明治になって三千院と公称するようになりました。
三千院は、比叡山延暦寺を開かれた伝教大使が、東塔南谷に草庵を開いたのに始まり、その後寺地は時代の流れの中で、京都市中を幾たびか移転しました。その都度呼び名も円融房、梨本房、円徳院、梨本門跡、梶井宮と変え、特に応仁の乱後梶井宮の政所であった現在の地を一時仮御殿とされたのでしたが、明治維新までは御所の東、河原町御車小路梶井町(現・府立病院)に御殿を構えておりました。元永元年(1118年)堀川天皇第二皇子・彩雲法親王が梶井宮に入室され梨本の正統を継がれて以来、皇族出身者が住持する宮門跡となりました。妙法院、清蓮院、曼殊院、毘沙門堂とともに天台宗五箇室室門跡のひとつとして歴代の天台座主を輩出してきました。
大原は古くから貴人や念仏修行者が都の喧騒を離れて隠棲する場として知られていた。文徳天皇の第一皇子である是孝親王(これたかしんのう、844‐897年)が大原に隠棲されたことはよく知られ、『伊勢物語』にも言及されている。藤原氏の権力が絶大であった当時、本来なら皇位を継ぐべき第一皇子である是孝親王は、権力者藤原良房の娘・藤原明子(あきらけいこ)が産んだ清和天皇に位を譲り、自らは出家して隠棲したのであった。大原はまた、融通念仏や天台声明(しょうみょう、仏教声楽)が盛んに行われた場所として知られ、天台声明を大成した聖応大師良忍(1073‐1132年)も大原に住んだ。」とのことである。
そんな修行の伝統のある大原は古くから朝廷の馬の供給場所でもあり、また野菜や炭の生産地でもあったようで、厳しい山中にありながら地の利にかなった発展をしてきた地域のようである。その三千院に入ってみると、ここでも阿弥陀寺同様に美しい緑にあふれていた。最初に入った客殿からは見事な庭園が見られ、落ち着いた雰囲気であった(2枚目の写真)。
かって梶井門跡がこの大原の地に移って極楽院を取り込んで本堂とした往生極楽院には、小さいお堂ながらかなり大きな阿弥陀三尊像が納められていた。いずれも穏やかな姿で両側の菩薩像はやや前屈みに跪いた「大和座り」をしている珍しい姿であった。なお、そのお堂の天井には大きな像を入れるためか船底型になっている珍しい構造であった。その極楽院の前庭は美しくよく手入れされた苔に覆われており、そこに美しい顔や腹這いになったりの面白い恰好をした何体かの童地蔵がこちらを眺めていた(3,4枚目の写真)。
その後境内のあちらこちらのお堂をお参りしながら歩き、出口に差し掛かるとそこの建物には大きな菊の御紋が付けられていた。やはり、三千院門跡なのである。出口を出たところにある茶店でそばの昼食をとり、参道を下りながら様々な特産品を売るお店などを見ながら歩いていると、最近テレビなどで話題の“アイスきゅうり”を売る店があった(5枚目の写真)。この暑い季節、よく冷えていて程よい漬かり具合で、ちょっと塩味の効いたアイスきゅうりは、値段もそこそこで実に美味しかった。大原の人達はなかなか商売上手で話題作りに事欠かないようである。
それにしても、洛北のち・大原は秋の紅葉を待たずとも十分に自然の美しい地域であることを認識することになった。