[簡易復元] 2011年3月、南紀白浜を訪ねる(2)白浜の海岸線を行く
- 2011/11/03 14:00
パンダのいるアドベンチャーランドを出て起伏にとんだ海岸線に向かった。まず三段壁と言われる場所に来たが、狭い入り江のようになっている両側に険しい高さ50メートルの壁が立ち上がっている。このような地形は約2キロにわたって続いているようである。三段壁と言う名前は昔漁師が沖を通る船や魚群を見張る場所であったことから「見壇」という言葉からその名になったと言われる。この壁の近くには36メートル下ったところに熊野水軍の隠し洞窟だったと言われる洞窟があり、エレベーターでそこまで降りられるようになっている。ただ、今回は時間の関係で降りることはできなかった。
この場所から北にしばらく車を走らせると千畳敷と呼ばれる名所がある。そこは瀬戸崎から海に向かって突き出している大きな岩盤で、第三紀層の柔らかい砂岩から出来ていて、それが太平洋の荒波に浸食されて盤状の構造を創り出しており、その盤上には実に面白いさまざまな模様を創り出している。それらが2枚目および3枚目の写真である。なにかちょっとした絵画というか抽象画というか得も言われぬ趣のある“絵”である。それはそれとして、ここは柔らかい砂岩でできているので、沢山のたわいのない落書きがある。でも、それらはきっとその内に波に洗われて消えてゆくであろう。
この日はこれでホテルに向かって走り、宿泊した。そして、十分に温泉を楽しませていただいた。たまたまふくらはぎを痛めていたので、少し熱めの温泉は患部にとても気持ち良く、治癒への引き金となった。翌朝早く、ホテルから海岸線を撮った写真が4枚目である。上に書いた三段壁に比べると千畳敷やこの写真に見るような白砂の砂浜はどうしてこうも違うのだろうかと不思議である。
ちょっと頭を巡らせてみると、思い当たる節はある。それは中央構造線がこの間を東は関東から、西は九州まで東西に走っているような気がするからである。Wikipediaは中央構造線について次のように言う。
「関東から九州へ、西南日本を縦断する大断層系。中央構造線を境に北側を西南日本内帯、南側を西南日本外帯と呼んで区別している。1885年にハインリッヒ・エドムント・ナウマンにより命名。一部は活断層である。構造線に直接接している岩石は、内帯側はジュラ紀の付加複合体が白亜紀に高温低圧型変成を受けた領家変成帯、外帯側は白亜紀に低温高圧型変成を受けた三波川変成帯である。領家変成帯には、白亜紀の花崗岩も大量に見られる。高温低圧型の領家変成帯と低温高圧型の三波川変成帯は、白亜紀の変成当時は離れて存在していたはずだが、中央構造線の活動により大きくずれ動いて接するようになった。」
この話は甚だ厄介なことが書いてあって理解不能な部分があるが、要するに三段壁のあたりときれいな白砂の豊富な辺りはもともと別のものだったということなのかもしれないし、またはその辺りの活断層のために地形や岩石など様々なものが入り組んでいるのかもしれない。そんな安易なことを考えるのであるが、いかがなものであろうか。ちょっと頭を動かしてみただけなので、この話はこれ以上追及はしない。
5枚目の写真は南方熊楠記念館に向かう途中にある有名は円月島である。海水で浸食された穴がぽっかりと空いていて、そこに沈む夕日は素晴らしいそうである。