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日本代表のFIFAワールドカップロシア大会は、多くの余韻を残して終わった

  • 2018/07/09 10:11

 いろいろ考えさせられたFIFAのワールドカップだった。しかし、とにかく、感動もしたし、涙にもくれたロシアでの4試合だった。その意味では、私たちに充実した時間を下さった日本代表チームに心から感謝したい。

 ヴァヒド・ハリルホジッチ監督の元、とにもかくにもワールドカップロシア大会への出場権を獲得し、大会開始まであと2か月と迫った4月7日、思いがけない監督解任が日本サッカー協会田嶋会長から発表された。そして後任には西野朗氏が就任し、新監督はトライする国際親善試合はわずか3つという苦境にさらされることになった。そのような状況からいかにして這い上がるのか、ほとんど試行錯誤するチャンスすらない中でいかなる結果をロシアで残すのか、世界中が見つめる中でのワールドカップであった。
 当然のことのように、国内の意見はもちろん国際的な評価も低く期待薄という状況で、H組のコロンビア、セネガル、ポーランドなどの強豪たちと如何に戦うのかが焦点でなった。そして、素人である我々に一縷の望みを与えてくれたのは、6月19日のグループリーグ初戦の対コロンビア戦の開始わずか5分で見せた大迫選手や香川選手の闘う意志を明確にした振る舞いであった。特に最近表に出ることは比較的少なく、どちらかといえばゲームをコントロールする黒子に徹することが多かった香川選手の驚くほど果敢な姿勢が、前線での大迫選手の頑張りをシュートに表現し、思わず手を出した相手バックスのハンドを誘い、レッドカードで退場、そしてPKを獲得して香川選手による先制点を引き出すこととなった。その後同点とされるも73分に、その直前に投入された本田選手のコーナーキックを大迫選手が見事にゴールにたたきこんで格上のコロンビアから勝ち点3をもぎ取った。それをもたらした攻撃的な姿勢と的確な西野采配は、西野ジャパンに大いなる希望をもたらした。香川選手のこのような振る舞いは決勝トーナメントのベルギー戦の立ち上がりにも見られた。これはきっと西野監督の考えを汲み取った香川選手からのメッセージだったのであろう。

 その後の展開も私たちを驚かせるとともにいまだかってないベスト8への夢を見ることとなった。グループリーグ第2戦でグループHで最強とうわさされた対セネガル戦では、二度のビハインドを圧巻の攻撃力を見せて追いついて引き分けグループ首位を維持した。しかし、最後に立ちはだかったのは当初最強をうわさされていたが2連敗を喫してすでにグループリーグ敗退が決まっていたポーランドであった。そして、最後に勝利への執念を見せたポーランドに1点を先取されたがそれ以上の失点をせず、もう1試合を同時刻に戦っているコロンビアが勝利すれば、新たに創設されたフェアプレイポイントでグループリーグを突破できることから、最後の10分ほどをボール回しだけに徹して攻撃を仕掛けないという西野監督の決断に基づく戦い方に賭けてグループリーグを2位で突破できた。この戦い方には様々な賛否両論があったが、どうしても決勝リーグで闘い、ベスト8への経験を積みたいとの強い希望がそうさせたのであったし、私もその戦い方には同意する。
 しかし日本チームは極めて消極的にグループリーグを突破したとの批判を見事に跳ね返すように、決勝トーナメントでは優勝候補と言われたベルギーをほとんどどん底まで突き落す戦いを見せた。日本は後半23分まではベルギーに2点差をつけていたが、そこから本気のベルギーが顔を見せ、延長突入までわずか数十秒という時点で逆襲され、わずか9.94秒のあいだに決勝点を奪われることとなった。まさに全く言葉の出ない最後であった。この25分間の戦い方についてはそれぞれがそれぞれに意見があると思うが、それは私ごときが語ってもしようがないことと感じる。ただ、ありがとう、素晴らしい戦いであったというだけである。

 最後に今回の日本チームの戦いで私にきわめて印象的なことがあったのでそのことを書いておきたい。このブログの主役は以下にある。そのことは、私が学生に講義をしてきた40年間の最後あたりにしきりに学生に言いたいことだったからである。そのためには大量のパワーポイントファイルを作成してきたが、それはこうゆうことである。ここ数日猛威を振るう豪雨のもとは”水”である。その水は熱を奪えば”氷”になるし、熱を加えれば水蒸気になる。つまり固体ー液体ー気体という異なるグローバルな状態をとりうる(それを模式図にしたのが講義用の5枚目の写真である)。鉄だって同じことであり、普通は固体であるが高い熱を加えれば溶岩のように流れる液体になり、さらに気体にもなる。あらゆる物質はこの3つの形をとりうる。つまりは、その成分を調べてみると(図には「要素化」と書いてある)水や氷や水蒸気の場合にはどれでももとはH2O(エイチ・ツー・オー)分子である。鉄の場合でももとは鉄原子(Fe)である。私たち人間社会の場合はヒトの集まりである。それぞれ顔は違うがヒトである。でもそれぞれが勝手な振る舞いをする集団もあれば、固まって動きのない集団もある。また全体が一つになって流れるように動く集団もあり、それぞれの存在様式の中にも細かい違いはいくらもある。これだけ言えばお分かりのように、ものが集まってひとつの塊を作る場合、その集まり方によって様々な性質をもったものが生まれてくる。つまりは、水分子ひとつ、鉄原子ひとつ、ヒトひとりだけ取り上げて調べても分かることは多くはない。私たちの世界は、同種のものでもたくさん集まると無数の存在様式が生まれる複雑な世界である。だから、雨、洪水、風、台風、竜巻、ダウンバーストなどなどどれをとっても簡単ではなく、むしろ理解できないことだらけの自然現象である。科学が進んだ時代などとんでもない。
 サッカーチームでもことは同じである。同じ体力、同じ技術水準のメンバーがどのような絆でどのような意欲で集まり、どのような指導者がそれをまとめるか、あるいは引っ張るかで全く違う無数のチームが生まれるのであろう。西野監督がハリルホジッチ前監督からチームを引き受けてから少したっての記者会見で、記者から不安はないかと聞かれ”ない”と何の躊躇もなく答えたのには驚いた。彼には何か特殊な能力、つまりなにが欠けているかの臭いをかぎとる能力があるような気がする。それを西野監督はコミュニケーション不足、意志疎通不足とかぎとり、それを補うために全体であるいは選手間で相当の議論を重ねたと感じられる。それに彼のきわめて攻撃的な闘い方を加えて、あっという間にランキング上位にも引けを取らないかもしれないチームに仕上げ、グループリーグの強豪に戦いを挑んだとみてよいのかもしれない。彼はガンバ大阪の監督だった2008年、FIFAクラブワールドカップマンチェスター・ユナイテッド戦では取られても取り返すという激しい戦いを挑んだことは有名である。
 西野監督がハリル後を引き受けた時、上のようなことをわかっていた私でもあまり期待することはできないと思っていた。しかし、ロシアの地でそれまでの日本代表とガラリと変わった代表を見て、やはりどこかを少し変えて意思統一を繰り返して編成し直すと全く違ったチームが生まれるのだという”あたりまえのこと”を実感することとなった。最後にちょっと変な話をひとつ付け加えさせていただきたい。魚の縦じまだったり横じまの違い、またキリンの斑点と豹の斑点の違いなどは、まったくごくわずかの違いであのような模様になるのだと理解できるらしい、とは言っても厄介な話ではある。

 最後にお詫びを。今回の新聞記事あるいは写真は多量で多彩で私の頭の中はごちゃごちゃである。したがって、ここに挙げた写真は半ば行き当たりばったりで、特に説明もしない。ご覧になる方は想像力を働かしていただきたい。ここにお詫び申し上げる。

北朝鮮の非核化で見え隠れする世界のダブルスタンダード

  • 2018/07/06 13:03

 今冬の平昌冬季五輪の時から朝鮮半島情勢がこれまでと異なる展開を見せ始め、世界のマスメディアはこのことでもちきりである。だから、私は全く書く気もしなかったが、その中での最大の課題である北朝鮮の「非核化」についてあまりにひどいダブルスタンダードで公然と議論されてきていることにほとほと嫌気がさして、私の率直な気持ちを一度簡潔に書いておこうと思って書き始めている。

 この議論の主役は米国トランプ大統領と金正恩朝鮮労働党委員長で、二人は6月12日シンガポールで史上初の首脳会談を行った。そしてその後署名された共同声明で、北朝鮮が「完全な非核化」に取り組むことが確認された。それを報じた6月13日の読売新聞朝刊の一面の写真がこのブログ1枚目の写真である。
 今回のトップ会談で課題とされたのは、米国が北朝鮮に「安全の保証の提供を約束」する代わりに、北朝鮮は「完全な非核化」すなわち「完全かつ検証可能で、不可逆的な非核化(CVID=Complete, verifiable, irreversible Denuclearization)」を合意することができるかどうかであった。このことについて会談の結果出された共同声明では、「トランプ大統領は北朝鮮に安全の保証を与えると約束した」一方で、「金正恩委員長は朝鮮半島の完全な非核化に向けた堅固で揺るぎない決意を再確認した」と表現されている(読売新聞6月13日第3面)。要するに、マスメディアを含めて一般にはトランプ大統領の譲歩が目立っているとするのがふつうである。それは、これまでの米国と北朝鮮の合意が何度も破られ、果てしなく難しい交渉で会ったとの経験から、首脳会談に向けて著しく目立った高い目標を設定しなければ始められないジレンマにトランプ大統領が追いつめられていたとも感じられる。したがって、会談が近づくにつれ少しずつ合意のレベルを下げてきた気配を私などは感じていた。それはそれでよいと私などは考えるが、しかしCVIDなどはとんでもなく難しい事業である、あるいは逆に言えばそれをやろうとすれば自分の方に火の粉が降りかかってくることを案じているのではないかと思うほどである。それほど非核化の問題は急務でありながら恐ろしく難しい課題であろう。

 そこに立ちはだかる難題とは、トランプ大統領が言いだしっぺとして北朝鮮の非核化を語るたびにあまりにも身勝手なダブルスタンダードが照らし出されるようになることであり、さらに米国自身や同盟国の「非核化」がくすぶりだすからなのであろう。ちょっと考えてみよう。たまたまであるが、歴史的な米朝首脳会談が行われた1週間後の読売新聞に興味深い記事が出ていた(2枚目の写真)。それは、権威あるスウェーデンのストックホルム国際平和研究所(SIPRI)が世界の核軍備に関する報告書を発表したことである。それによれば、今年1月時点の世界の保有核弾頭数は、1万4465発と推計され、このうち約9割を米露が、それ以外の大半も英仏中が占め、残りはインド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮で、いま注目の北朝鮮は10~20発とされる。
 要するに、大きな顔をして核を持ち続けているのは米露英仏中の五か国で、なんということはない国連安全保障理事会常任理事国で、第二次世界大戦の“戦勝国”であり、安保理の拒否権を持っている国々である。まあ、言うなれば自分たちが気に入らないことには"No!"と言えばそれで終わりできる権利を持っている国々である。この五か国以外で核を持つのは、その五か国に反旗を翻したか、あるいはその五か国のどこかに固く同盟国として守られてきた国である。それがどこだとは言わないまでも、いまや核を持つことは公然の秘密であり、北朝鮮のように“非核化”を突きつけられることもない不思議な存在である。こんな話を北朝鮮が非核化の交渉の中で語り始めたとしたら、交渉は終わりになるであろう。その爆弾を北朝鮮は握っており、切り札である。
 私にはこんな戦勝国の身勝手さが許されているなんて信じられないのである。したがって、そんな不条理なことをみすみす見逃しているからこそどこかに非核化を突きつけたとしてもそれがそう簡単にはいかないのである。しかし、今回は北朝鮮が世界から一応袋だたきにあって非核化を強く求められたのは、きっと、北朝鮮が孤立化をいとわずに核大国を目指して核開発を続け、世界、とりわけ五か国の常任理事国が危機感を感じたことに端を発したということなのであろうか。だからと言って、北朝鮮だけに「非核化」をしかも「完全な非核化」を強要することは明白なダブルスタンダードであることは子供でもわかる簡単な話である。だから、ことはそう簡単に進むはずがないのである。当たり前だが、いつの間にか中国やロシアが北朝鮮の後ろに隠れて様々な指図をしているように見える。

 よその国のことばかり言っても始まらない。日本はどうなるんだろうか?日本はかなり前までは非核三原則と称して、核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」と広く宣言し、日本の港に寄港する米国船舶は核兵器を持っていないと”信じる”ことになっていた。そして、「核の傘」に入っていることも明確には宣言していなかったと、私などは記憶している。しかしどうだろうか、最近の与党は日本は核の傘に入っていると意味する発言を平然としているように見える。これでは、我が国は「核武装」をしていることとなんら変わらないと考えるのが普通の見方である。これでは、常日ごろから北朝鮮に敵視され、非核化問題に口をはさむなと言われ続けるのも無理なかろうと思ってしまうが。だから、「核の傘からの離脱」を世界に向かって宣言して初めて、唯一の被爆国としての面目が保てるのであろう。

日大アメフト部による悪質タックル事件から見える日本社会の構造

  • 2018/05/27 02:14

 タイトルは「日大アメフト部による・・・」とし、「日大アメフト部員による・・・」とはしなかった。お読みになる方には察していただけると思うが、この事件はタックルした部員一人の問題ではないからである。事件は、5月6日の日体大vs 関西学院大のアメリカンフットボールの定期戦で起こった。もはやこのブログを読んでくださる方のほとんどはご存じだろうと思うが、アメフトゲームの中心的なプレーヤーの関西大QB(クォーターバック)がパスをして完全に無防備の状態になった2秒後に、日大のディフェンスの選手が後ろから猛タックルを浴びせたのである。ネットではこの動画がアップされ、レイトタックルでもアメフトでもなく、ただの暴力だと書きたてられている。確かにそうである。
 アメリカンフットボールというゲームは、ラグビーと並んで最も激しいコンタクトスポーツと言われ、それだけに厳しい規則によって選手を守ることで知られており、毎年ルール改正が行われているが、それでも選手の怪我が絶えないのも事実である。私はアメフトにそれほど詳しくはないが、それでも大学のアメフトはしばしば観戦した経験があり、今回のように全く無防備になったQBを後ろからタックルというようなケースはもちろん見たことも聞いたこともない。問題はなぜそのようなありえないようなプレーに至ったかである。

 この事件から2週間もの間日大アメフト部のHPに比較的簡単な声明が発表された以外には事件の全容解明に日大が有効な行動を起こさずマスコミによる報道ばかりが過熱した。そんな中思わぬことに5月22日悪質なタックルを浴びせた選手本人が弁護士とともに記者会見に臨んだのである。よく出てきたとこれには私も驚いた。1枚目と2枚目の写真は、それを報じた5月23日の読売新聞朝刊の記事である。細かいことは抜きにして要点は、危険なタックルに及んだのは、監督やコーチから「相手QBをつぶせ」との指示があったとし、またそのような指示には逆らえない立場に追い込まれていたことを詳細に明らかにし、さらに日大アメフト部では監督やコーチの指示に逆らうことは難しく、監督とコミュニケーションをとれるような関係は存在しないと語った。
 この冷静で、時系列を詳細に追って語った当該選手の会見に危機感を抱いたのであろうか、翌23日に急遽日大アメフト部の内田監督と井上コーチが会見を行った。それを報道したのが3枚目と4枚目の写真の記事(読売新聞24日朝刊)である。当該学生の会見に比べて明らかにしどろもどろで明快さを欠いたが要点は、危険タックルについて指示を否定したが、「QB潰せ」発言を認めつつ、「けが目的ではない」とあいまいな見解を述べるにとどまった。つまり、監督・コーチとしては選手に気合を入れるだけのつもりであったが、選手はそのようには受け取れず「けがをさせてこい」と受け取ってしまったという言い訳であった。私から見れば、彼らにはチームにコミュニケーションの基盤が存在しないという認識が全くなかったと言うしかないのである。
 2つの会見と様々な報道を通じて分かったことは、「コミュニケーションの基盤が存在しない」と選手は感じ、指導者たちは「結果としてコミュニケーションがうまくいかなかった」と述べ、どちらもコミュニケーションつまり意思疎通が課題だとは認識しているらしいことであろう。私の想像で言えば、日大アメフト部の指導者たちは彼らが考える内容を「有無を言わせず伝える」のがコミュニケーションであるが、受け取る側のまだ成長過程にある選手たちは指導者が考えることを「理解する」ことがコミュニケーションであると思っている節がある。これは当たり前のことだと考えるが、この違いに日本のスポーツ界に古くから存在する、つまり方針や意志は常に上から下に伝えられ、流れるものだとする「上意下達(じょういかたつ)」の考え方が潜んでいるように思われる。

 日本におけるスポーツは、もとはと言えば明治時代から国の軍事力強化に向けての兵士の体力強化目的で学校において「教育」の一環として始められた「体育」に根ざしている。したがって、日本ではスポーツは学校教育の一環であり、「教育的観点」が持ち出され、両者は一体化して語られるのが常である。特にそのことが有名で目に付くのはあの高校野球であるが、大学におけるスポーツでもそれは例外ではない。要するに、以前から絶えず言われてきたことであるが、日本は縦割り社会で基本的には年功序列の社会である。これが最も色濃く残っているのが経験がものを言うスポーツ界で、監督やコーチは絶対の権力者である。この構造に割って入るのは学生・生徒はもちろん親も子供を人質にとられていてよほどのことがない限りものが言える状況にはない。
 日大の指導者たちは言葉が流れていればコニュニケーションが存在すると考えているのかもしれないが、本当のところは双方向に言葉が流れて疑問を明らかにする「議論」があって初めてコミュニケーションなのである。時間が刻々と流れる試合の中ではそれは難しくとも、その前段階の練習の中でこそ時計を止めて「議論」が行われるのでなければならない。加害者になってしまった当該学生は、指導者との間にそのような関係は存在しないと述べていた。もともとコミュニケーションは存在していなかったのである。それがあってこそ初めてスポーツが教育の一環だと言われても納得できるが、それがなければただのパワハラの世界である。

 いま鮮明に思い出すことがある。私や家族は今から30年以上前に仕事の関係でアメリカカリフォルニアにしばらく滞在したことがある。3人の子供たちが小中学生のころである。彼らは地域のサッカーのクラブチームに所属し、そこでの活動を通して地域になじんでいったのである。私もサッカーが好きで彼らのゲームをしばしば応援に出かけていたが、日本では見られない面白いコーチ(監督)と子供たちの関係を知って驚いた。コーチが試合の前後やハーフタイムに子供たちに様々な話をすることは日本と同じであるが、日本と全く違うのは、コーチは必ず子供たちに意見を求め、彼らに発言させるのである。日本では監督が「わかったか!」と言えば子供たちは「はいっ!」と元気よく声を上げておわりで、それは高校野球のベンチ前で繰り返されるのと同じである。
 つまり、私が言いたいことは、アメリカなどにおける子供に対する教育指導で最も重要と考えられることは、子供に「自分で考える力」を身につけさせることにあるように感じられる。だから、子供であっても大人であっても彼らは積極的にものを言う習慣が身についていると言って過言ではない。それに対して日本の子供たちはものを言えない、議論ができないように感じられ、スポーツ選手もその例外ではない。特に絶対的な権力を持つ指導者の元にいるスポーツ選手(学生・生徒など)は何も考えられなくなる“恐怖コーチング”の世界にはまり込んでいると指摘する記事がウェブに掲載された。中竹元早大ラグビー部監督の主張で、私は完全に同調できるhttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180525-00010001-binsider-soci&p=1 )。

 昨日、遅ればせながら日大学長が記者会見を行い、あるいは日大アメフト部が関西学院大アメフト部に回答書を送ったようであるが何も事態が好転することはなさそうである。私がこのブログのタイトルに「・・・日本スポーツ界の構造」ではなく「・・・日本社会の構造」としたのは、スポーツ界の構造は基本的には社会の構造と同じと考えるからである。

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