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2012年09月の記事は以下のとおりです。

熊本の人吉から鹿児島を走り回って420キロ-(4)知覧-静かな城下町から特攻の町へ

  • 2012/09/03 11:44

 鹿児島に来たら避けることのできない町、知覧。開聞岳を下山しそこから池田湖の西にある展示館で体長1-2メートルの大ウナギを見た後知覧に向かった。1枚目の地図の写真が薩摩半島を示しているが、下から太平洋に突き出している開聞岳から北を見ると「南九州」という地名が見える。特攻基地のあった知覧はその南九州の南東すぐのところに位置している。実は、私は全く知らなかったことであるが、この知覧はもともと静かな城下町で、なぜかそこに特攻基地を作ったのだという。まずはその静かな感じが溢れていた「知覧武家屋敷」を紹介したい。
 落ち着いた表現に満ちているあるウェブサイトに「薩摩の小京都」として紹介されている記事の一部をここに引用させていただきたい。「島津家のお膝元であり、西郷隆盛や小松帯刀、天璋院篤姫ゆかりの地として知られる薩摩は、総人口に対する武士の比率が大変高い(1871年(明治4年)の人口比で26%)土地であったという。藩は、領内を区分けして武士を分散させて居住させ、軍事的な拠点を複数作ると共に農民や漁民を効率的に支配していた。その仕組みを、藩主の居城(内城)に対して外城(とじょう)と呼び、外城内に住む領民は有事の際、領主や地頭の指揮下で戦さに参加することになっていた。それぞれの外城の領民がそれぞれの外城を守り、それぞれの外城が内城を守る役割を担っていたのである。このような外城は「麓」とも呼ばれ、現在もその面影の残る「出水麓」、「入来麓」を始めとして藩内に数多く存在していた。そんな外城の一つが薩摩半島の南にある知覧に残っている。整然とした美しい町並み、母ヶ岳の優雅な姿を借景に取り入れた武家屋敷の庭園の佇まいが、別名「薩摩の小京都」とも言われる美しい武家町である(http://japan-web-magazine.com/japanese/kagoshima/chiran/index.html )。」
 小さいが、しかし立体的に作られているユニークな庭園の写真を組み写真としてお伝えしたい。また、その庭園を両側に挟むように、狭からず広すぎることのない小路もまたユニークな作りになっている。それらを紹介したい。どの屋敷の庭園も小さい。そして使われている植物もマキ、サツキ、チャなどが使われ、この時期に咲いている花としてはサルスベリが最も多かった記憶がある。特にマキは生垣にあるいは独特の形に作られて庭に配置されていたりする例が多く、今の時期黄緑の新芽が美しかった(2枚目の写真)。
 また、それら庭園に挟まれた小路も様々な石垣と生垣にかこまれ、さまざまにカーブしている形は見るものを飽きさせない。それも堪能していただきたい。この小路もいろんな方向に曲がりあるいは枝分かれさせていて、多くの軍勢が簡単に入り込めないように配慮されていたようであり、そんなことも含めて作られて今に残っているようである(3枚目の写真)。
 そんな城下町に、昭和16年大刀洗陸軍飛行学校知覧分校が設立されたが、大戦末期の昭和19年に知覧特攻基地に名称変更された。そして、その基地から終戦までの短い期間に1036人の若者が特攻機に乗って出撃していったのである。そんな、繰り返してはいけない歴史を後世に伝えるために知覧特攻平和会館(ちらんとっこうへいわかいかん)は鹿児島県南九州市知覧町郡に造られ、太平洋戦争(大東亜戦争)末期に編成された大日本帝国陸軍の特別攻撃隊に関する資料を展示する施設となっている(4枚目の写真)。
 その平和会館の庭には一式戦闘機「隼」III型甲という復元複製機が展示されている(5枚目の写真上部)。映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」の撮影に使用され、映画配給元の東映より知覧町へ譲渡された実寸大精巧レプリカである。また館内には実物の四式戦闘機「疾風」I型甲や三式戦闘機「飛燕」II型改が展示されており、さらに出撃途中に薩摩川内市沖に墜落し、戦後発見された零式艦上戦闘機五二型丙が機体前部、主翼そして主脚のみという形で展示されているのが目に付いた。それにしても特攻機といえどもかなり大きなもので、それに乗って突っ込んで行ったのかと思うと何とも言えない。
 それ以外に大量の資料、遺書、遺品、写真などの遺品4,500点が展示されているが、Wikipediaによれば、それらのほとんどは、知覧特攻平和会館初代館長 板津忠正(元特攻隊員)が集めたものであるという。5枚目の写真の下部分は館内の写真で、撮ってはいけないとは知らず1枚だけ撮った写真である。そこには特攻兵が乗って出撃したがエンジン不調で墜落し、前部だけのしかもボロボロに腐食した零式艦上戦闘機の機体が映っているのでここに掲載させていただく。こんな悲惨な歴史は、我々としては忘れるわけにはいかない。

熊本の人吉から鹿児島を走り回って420キロ-(3)長崎鼻から開聞岳へ

  • 2012/09/02 16:56

[$F01 style="float: right; width: 150px"] 三日目の朝指宿温泉の宿泊ホテルを出て、同じ指宿の長崎鼻に向かった。その途中、「フラワーパーク かごしま」に立ち寄り、世界の花や植物を見る機会を得た。その敷地は36.5ヘクタールと広大で、今回は時間の関係でそのほんの一部を見せていただいた。全体としてやはり南国の植物が多い感じで、例えば沖縄の植物を見ているような感じがした。花は咲いていなかったが、世界一大きい花が咲くと言われるショクダイオオコンニャクなども見ることができた。またチャンスがあればゆっくり来てみたい感じがした。
 そこからすぐのところに有名な長崎鼻がある。Wikipediaによれば、「長崎鼻(ながさきばな)は、鹿児島県南部、薩摩半島の最南端にある岬である。鹿児島県指宿市(旧山川町)に位置する。指宿カルデラの外輪山の一角を成しており、一帯は火山岩にて形成されている。長崎鼻(ながさきばな)は、鹿児島県南部、薩摩半島の最南端にある岬である。」という。「鼻」と名のつくところは、一般に岬の基部が末広がりになって三角形になっている場所を指すようで九州には殊の外多いという。
[$F02 style="float: right; width: 150px"] その長崎鼻を少し手前の高台から撮った写真が1枚目の写真の上部分で、なかなか良い眺めである。この形状は、その右側に位置し、かって活発に活動した開聞岳の外輪山の一部をなしているようである。開聞岳は薩摩半島(錦江湾の西側の半島)から太平洋に突き出す格好になっていて、長崎鼻の延長線上の外輪山は海の中に没していると考えるのだろうと思う。2枚目の写真の地図を見ていただければお分かりになるであろう。その地図では真下に長崎鼻があり、その西側で海に突き出した形で開聞岳がある。右上にある池田湖はそのカルデラ湖である。なお、この岬には竜宮伝説もあり、竜宮神社が造られていた。
 長崎鼻の近くから見た開聞岳の写真が3枚目で、あいにく雲がかかって頂上の方は見えなかったが、まことに形の宵山で薩摩富士と称されるのは分かる気がした。開聞だけに関してWikipediaに聞けば、「4,000年前頃活動を開始し、有史以降の噴火記録は6世紀ごろからあり、貞観16年3月4日(ユリウス暦874年3月25日)と仁和元年(885年)7月・8月に大噴火した。このとき、山頂に溶岩円頂丘が噴出し、現在の二段式の山容となった。山体は主に粘性の少ない玄武岩だが山頂付近の溶岩ドームは安山岩でできている。」という。
 車で登山道を上がるとすぐに「開聞山麓自然公園」が広がっており、その間を縫って3合目まで上がることができた。途中の展望台から長崎鼻方面を撮った写真が1枚目の下部分である。その自然公園でのんびり草を食んでいたのは、なんと日本の馬の在来種のひとつトカラ馬であった。トカラ馬(トカラうま)は、トカラ列島(鹿児島県鹿児島郡十島村)で飼育されてきた日本在来種の馬で、体高はおよそ100-120cmと小型で、在来馬の中でも最小クラス。ポニーに分類される。毛色は鹿毛のものがほとんどである。暑さに強く、古くから農耕や運搬、サトウキビ搾りなどに利用されてきた。1953年に鹿児島県の天然記念物に指定されている。なお、この馬は明治30年頃に喜界島から移されたものだとも言われている。
 その写真をまとめたのが4枚目の写真である。現在は絶滅の危機から脱しているようであるが、いまでは農耕などへの利用価値が低いこともあって先行き難しい問題があるようである。それでも、この広い自然でのんびりと生きて増えて行っているのはうれしい気分ではある。
 なおWikipediaによれば、「太平洋戦争において、知覧の特攻基地から出撃した戦闘機は、まず開聞岳へと進路をとり、富士山にも似たその山容に故郷や家族への別れを告げつつ南方へと向かったという。」なんとも言いようもない状況だったに違いない。特攻基地については別のブログで報告したい。

熊本の人吉から鹿児島を走り回って420キロ-(2)「君が代」の“さざれいし”とは?

  • 2012/09/02 14:11

 雨が降ったりやんだりの天候のため、えびの高原に上がっても何も見えないことは百も承知の上で車で駆け上がった。はるか40年以上も前、学会か何かで九州を訪れたとき秋のえびの高原にまで足を伸ばし、その紅葉の美しさに圧倒された思い出があり、その時の風景と重なるものがあるかと考えていた。今はすっかり車道も整備されており、季節が違うこともあって昔の面影を感じることはできなかったが、天候がよければきっと素晴らしい展望が開けていたのだろうと思った(1枚目の写真はWikipediaから借用したえびの高原の写真で、背景は韓国岳)。
 Wikipediaによればえびの高原は、「標高は約1,200mあり、宮崎県えびの市の南東部に位置する。狭義のえびの高原は韓国岳北西斜面に広がる面積約0.8平方キロメートルのなだらかな火山性扇状地を指すが、広義では韓国岳、蝦野岳、白鳥山、甑岳に囲まれた面積約5平方キロメートルの盆地全体を指す。霧島屋久国立公園の一部となっており、年間約80万人の観光客が訪れる。」とされる。
 残念ながら当日はえびの高原は雨が降ったりやんだりで、霧が出たこともあって視界は不良のため動き回ることはせず、「足湯の駅えびの高原」にとどまって物産品を眺めていた(こうゆう場所に来るとなぜか孫たちのための木製のおもちゃがあるのが不思議である)。2枚目の写真でお分かりのようにかなりの霧でよくまわりが見えないのがお分かりであろう。しばらくの間、よくは見えないがなんとなくえびの高原の雰囲気を感じた後に下山することにした。そして、霧島神社に向かった。
 霧島市にある霧島神社についてWikipediaは次のように言う。「欽明天皇の時代(6世紀)、慶胤(けいいん)なる僧侶に命じて高千穂峰と火常峰の間に社殿が造られたのが始まりとされる。実際の所は高千穂峰に対する山岳信仰から始まった神社であろう。(…中略…)しかし、火山の麓にあるという立地のためたびたび炎上する。(…中略…)現在の社殿は正徳5年(1715年)、島津吉貴の奉納により再建した物である。明治期の神仏分離令が発令されるまでは西御在所霧島権現と称し、本地堂は十一面観音。別当寺に華林寺を有する。霧島山を中心とした修験僧による霧島六所権現信仰の中心的役割を果たしていた。」。要するにこの神社は山岳信仰がその始まりであったようである。当初は霧島山全体がこの神社のものであったようであるが、廃藩置県や戦後の宗教改革などの結果現在の規模に落ち着いたとされる。
 そのことより私に興味があったのは、一番奥の鳥居の右手前に「さざれ石」が展示されていたことである。その写真が3枚目の写真で、小さな石がくっついて固まり石になったものが映っていて、その横に説明書きがある。それを拡大したのが下の写真で、その説明はおおむね理解できる。それについてネットで検索してみると、「さざれ石(細石、さざれいし)は、もともと小さな石の意味で、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウム(CaCO3)や水酸化鉄が埋めることによって、1つの大きな岩の塊に変化したものを指します。石灰岩が雨水で溶解して生じた、粘着力の強い乳状液が少しずつ小石を凝結していき、石灰質の作用によってコンクリート状に固まってできる。」とある(http://30469720.at.webry.info/201105/article_9.html )。なお、このようなさざれ石は岐阜県・滋賀県県境の伊吹山が主要な産地であるという。
 その上でそのウェブサイトの著者は、「君が代は ちよにやちよに さざれいしの 巌となりて こけのむすまで」(「古今和歌集」巻第七から引用されている)の国歌を現代訳すれば・・・
「わが君は、永遠の世々に、小さな石が大きな岩と成って 苔が生い茂るさきざきまで長く、おすこやかにあらせられませ」となる、とする。確かに素直な解釈で、「『君』は尊敬する人を意味する一般用語ですが、ここで収められている賀歌は皇統に対してのものなので、この「わが君」は天皇とみるのが妥当のようです。」。そして、「君」を尊敬すべき大事な人と考えれば、人それぞれに意味を込めて歌うことができるかもしれないと書き記している。
 遠い九州の霧島神社まで来て、ひとつ勉強をしたような気がした。そして一気に指宿温泉まで走って、まだ経験したことのない「砂蒸し温泉」で“砂蒸し”を初体験した。無理をしないでということで10分間だけ経験したが、もちろん体全体が熱くなり、きっとそれなりの効用があるのだろうと実感した。

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