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[簡易復元] 高槻の紅葉 (4) 摂津峡

  • 2011/12/01 13:15

 我が家から歩いてもそう遠くない摂津峡は、ほとんど平地と思われるところにあって、なお変化に富んだ渓谷を形作っているためか古くから行楽地としてよく知られている。この「摂津峡」という名前の由来について推測すると次のようになる。かって古代にあった難波津と呼ばれた「津国」(つのくに)なる国は海上交通への地形上重要な位置を占めるということから、その国を統治する摂津職が置かれたが、後に793年(延暦12年)摂津国という国名に変更されたらしい。この摂津国という旧国名から市名を採ったのが現在の摂津市で、面白いことに元々は三島市として発足したが、静岡県に同名の市が存在することから即日摂津市に変更されたという。
 この「摂津国」の北部に位置する渓谷ということで「摂津峡」という名前が付けられたのであろう。Wikipediaは次のように伝えている。「摂津峡(せっつきょう)は、大阪府高槻市を流れる芥川上流に広がる渓谷。府の名勝(1938年指定)および、『大阪みどりの百選』の一つ。摂津峡の西岸は、高槻市によって摂津峡公園として整備されている。
 摂津峡公園は1956年に開設された風致公園で、面積は37.2ヘクタールである。摂津峡公園はサクラや紅葉の名所として知られている。ソメイヨシノは約3000本植えられていて、毎年4月上旬には『摂津峡さくらまつり』が開催されている。また園内には青少年キャンプ場や、47都道府県の樹木を集めた樹木教材園などもある。摂津峡の中央部には古くからの小川亭などの茶店があり、ハイキング客らの休憩場として重宝されている。」
 こんな摂津峡は、大人から子供までの気軽なハイキングコースとしても知られ、ほぼ年中訪れる人が絶えることはない。また、このコースの途中から北に上がれば、立派な運動施設が整っている萩谷総合運動公園、さらにそこを通り過ぎて萩谷の奥へ行くこともでき、そこから東に向かえば上の口方面に行くこともできる。そこまで行けばかなりハードなハイキングコースとなる。
 さて写真であるが、渓谷の中には紅葉の木はそれほど多くはない。1枚目の写真は落書きされてきたないが、摂津峡を紹介する看板である。2枚目からは紅葉の写真をランダムにお見せしたい。あまり多くはないが、巨岩の間を流れる清流の上に突き出した紅葉の枝はなかなかいいものである。

[簡易復元] 高槻の紅葉 (3) 摂津峡公園からもみじ谷へ

  • 2011/11/30 23:21

 私の部屋の北側には、芥川が造りだした摂津峡の東側に位置する小さい三好山の東の側面が迫って見える。今年はとりわけ黄色、緑色そして赤に染まって美しい。
 「大阪府高槻市と京都府亀岡市との境をなす明神ヶ岳に源を発し、山間部で京都市西京区と高槻市の市境を流れた後、高槻市を南に縦断して流れ、女瀬川を高槻市中心部で合わせ高槻市南部で淀川に注ぐ。上流部の摂津峡は名勝として知られ、花見やキャンプ、紅葉狩りなどの行楽客を集める。中流部で旧西国街道と交わるあたりは宿場町として栄え、芥川は六宿駅の一つに数えられる。」(Wikipedia)
 これが芥川の正確な記述と思われるが、 私の感覚から言えば、芥川は大阪府道・京都府道6号枚方亀岡線と大阪府道115号萩谷西五百住線の間を流れ下る小さな川でその両側には沢山の田圃や畑が広がる豊かな里山がある。しかし、その小さな川の途中、上の口と下の口の間には不思議なことに巨岩、奇岩が荒々しく立ちはだかり、見事な渓谷となっている。その下の口側の西側高台は「摂津峡公園」(通称 桜公園)として整備され、市民の憩いの場所となっている。
 この公園はどちらかといえば桜が主流で桜の季節は大いに賑わっている。その桜公園西側を突き抜けるように一方通行の急な坂道が萩谷方面に走っており、その両側とそこから近い「もみじ谷」が美しい紅葉の場所となっている。昨日もそこを歩いてきたが、今年もなかなかもみじが美しい。最近は、桜公園のちょっと奥まったところの狭い空間が「もみじ谷」と呼ばれ、人気である。1枚目の写真はその狭い空間の写真である。
 2枚目の写真は、そのもみじ谷とそれより西側の道路の間の風景である。この辺りにはまだ小さいが、実に美しいもみじの木が植えられており、それが大きく育った時にはさらに美しい風景が見られるであろう。3枚目の写真は桜公園から摂津峡方面への北向きの道路方面を眺めた写真である。左側の写真を撮った時は雨上がりであったため、枯れ枝についている水滴が美しい。
 4枚目の写真は、その摂津峡と桜公園の間の道路わきにある色鮮やかな紅葉で、最後の5枚目の組み写真はそこから見た桜公園側にある一本の変わった色の紅葉で幻想的な雰囲気を醸し出しており(上)、みんながそれをバックに写真を撮っていた。下部分は芥川対岸に見える竹林を垣間見たものである。

[簡易復元] 高槻の紅葉 (2) 本山寺

  • 2011/11/30 14:20

 本山寺については「[簡易復元] 高槻の5月、ポンポン山、本山寺、鯉のぼり、そしてジャズ・ストリート」に少しそのいわれについて述べた(http://www.unique-runner.com/blog/index.php/view/61 )。もうすこし詳しくWikipediaに聞いてみると次のように言う。
 「本山寺(ほんざんじ)は大阪府高槻市にある天台宗の仏教寺院。山号は北山。本尊は毘沙門天。鞍馬寺、朝護孫子寺とともに「日本三毘沙門天」とも言われている。寺伝によると、持統天皇10年(696年)に役小角が葛城山で修行中に北西に紫雲のたなびくのを見て霊験を感じ、北摂の山に来て自ら毘沙門天像を彫り、堂を建てて修験の道場として開山したのが始まりと伝えられている。その後、宝亀年間(770年頃)に光仁天皇の子・開成皇子が諸堂宇を建立して本格的な仏教寺院として創建したと伝えられている。北摂三山寺として、根本山と号する神峯山寺、南山と号する安岡寺とともに北山と号して天台宗に属している。
 天正10年(1582年)の山崎の戦いの際に高山右近の兵火に罹り焼失したが、慶長8年(1603年)、豊臣秀頼が鐘楼、楼門などを再建。宝永年間(1705年頃)に5代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院が大改修を加えた。現在の中の門は、伏見桃山城から移築されたと伝えられる。戦国時代には、松永久秀がこの寺で立身出世を祈願し、その後望みがかなったことから五百住にある所領の良田を寄進しているほか、芥川山城より機内に権勢を振るっていた三好長慶や、キリシタン大名としても知られる高山友照・右近親子、甲斐国武田信玄の信濃侵攻により駆逐され三好家に身を寄せていた前信濃守護・小笠原長時らが寺領の安堵状を出している。また江戸時代には、高槻城主・永井氏や皇室などの崇敬を受けている。」
 なんと、このお寺といい先に述べた神峯山寺といい戦国時代の武将たちに大いにお世話になっているのだと痛感する。上に言う北摂三山のひとつ安岡寺も我が家から走ったら10分で行ける距離である。まだきちんとお参りしたことはないが、その内にと考えている。もちろん、この地は継体天皇陵と思われている今城塚古墳もあり(http://www.unique-runner.com/blog/index.php/view/18 )、古墳時代から様々な歴史の舞台になってきたところで、少しずつそれが実感できたらと思っている。
 さて、本山寺の写真であるが、1枚目は本山寺入口のの勧請掛の手前に建てられている看板の写真で、そこに由来が簡単に書かれている。また、2枚目は本堂に上る長く急な石段の写真である。さて主題の紅葉であるが、写真は昨年秋にかなり盛りを過ぎたときに訪れた時のもので、お寺は黄色に輝く紅葉に取り囲まれていた。その写真3枚をお見せする。なお、もし今年もっと良い写真が撮れた時には写真を入れ替えさせていただこうかと思っている。

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