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前立腺がんに対する「高線量率組織内照射」治療、その後(3)~がん細胞の100%排除は至難の業だ~

  • 2015/04/21 16:31

 私の前立腺がんが見つかったのは定年退職の前年の暮れであった。そしてその次の年の夏に、当時まだそれほどデータは蓄積されていなかった「高線量率組織内照射」と呼ばれる放射線療法を大阪大学附属病院で受け、完治を目指した前立腺がんとの長い付き合いが始まった。そして、前立腺がんを患っておられる多くの方々の参考にすべくかなり詳しい報告「前立腺がんに対する『高線量率組織内照射』治療の体験」をその年の暮れに私のホームページに発表した(http://www.unique-runner.com/zenritsusen4.htm )。思いがけないことにその報告は多くの方々に読まれて治療の参考にされたことが徐々にわかってきたため、さらにそれが有効になるようにと2年後に簡潔な「前立腺がんに対する『高線量率組織内照射』治療、その後(1)」を(http://www.unique-runner.com/zenritsusen_sonogo1.htm )、さらに「・・・・・その後(2)」を7年後の2010年に同じくホームページに発表した(http://www.unique-runner.com/zenritsusen_sonogo2.htm )。
 今回この日記帳に場所を変えて「その後(3)」を発表しておきたい。今回この報告を書く気になったのは思いがけないデータであった。私の放射線治療は2003年の夏に行われ、それ以降は慎重な経過観察に終始してきた。しかし2009年にかけてじりじりとPSA値が上がり始めた。それについては2つの説明が可能で、一つは放射線治療で死なずに残っていたであろうがん細胞が少しずつ増殖して数を増やしてきたとする考えと、もうひとつは加齢に伴う前立腺肥大(全摘出手術ではないので前立腺は存在する)、つまりがん化していない前立腺細胞の増加によるPSAというたんぱく質産生の増大である。
 私は後者の前立腺肥大による値の上昇をもっともありそうなこととして考えたかったが、前立腺がんの専門医師は、放射線治療後のPSAの最低値(私の場合には1.12)に2を足した値を超えた時には、それを「再起動」、つまりは「再発」と考えるとのある種の決まりの上に立った治療をするべきと述べられ、カソデックスというホルモン関係の薬剤の投与を私は受け入れた。掲載したグラフの写真のちょうど真ん中より右あたりの小さいがしかし明らかなピークの時から使い始めたのである。その薬剤の効果は確実で、直ちに数値が下降線をたどったことで証明された。
 その薬の使い方は、できるだけ耐性のがん細胞が出現するのを嫌って3か月に2週間というように間欠的に投与する方法をとった。ただ、そのデータをグラフにしてみると、その薬の投与後も少しずつではあるが値の上昇がみられている。少し不気味な感じであった。その流れが止まらないので、3か月に3週間薬を服用するように強化して一応平穏を保ってはきたが、思いがけなく昨年11月暮れ、関東への引っ越しの直前になって、3.3→5.38と一挙に上昇し、くすりを止めるとどの程度上昇するのかを1か月間様子を見たところ、5.38→6.66へと下がることなく上がり続けた。
 そこで、これまでの薬を間欠的な投与をやめて毎日服用することとし、さらにちょうど神奈川県への引っ越しと重なったため、阪大病院から紹介された横浜市立大学医学部付属病院で安全のために別の新しい薬、オダインに切り替えて一日3回服用して落ち着かせることとした。そのデータは、グラフの一番右側のデータであるが、最大に上がった6.66から3.39→3.16へと急降下となり、薬が効くことが明らかになった。
 私の治療が始まってから既に13年目になるが、やはりそう簡単には完治と言えないのだとつくづく思うこととなった。がん発生のメカニズムが分からない現在それは当然ではある。だから、私たちにできることは、病気をとことん理解する努力を払い、用心深くデータを見続け、変化があればその都度的確な治療を選択するということだけだと思う。「これでもがん治療を続けますか」(近藤誠著、文春新書)と題する話題の本は、そのことを考えるときに役に立つ本だとは思う。

引っ越して初めてわかるこの地の人とインフラの在り様

  • 2015/04/15 18:26

 引っ越して3か月が過ぎた。生きてゆくためには様々に動きまわるしかないが、その過程でこれまで住んでいた中部や関西との違うところがいろいろわかってきた。私たちが引っ越してきた街は高い人口密度にもかかわらず、交通信号の非常に少なく思えるところである。では、どのように安全が確保されているかであるが、街を歩いていて信号のない交差点の横断歩道のところに来て立ち止まると、そこを通ろうとしていた自動車は軒並み止まり、先に横断するようにと合図を送ってくれるのである。こちらが、そちらこそ先にお通りくださいと合図しても動かないのである。どのようにしてこのような習慣が生まれているか不思議である。
 かって、いつだったか法規が改正されて歩行者優先が叫ばれた時があり、その時には歩くものも自動車を運転する側もお互いに注意を払って横断歩道で“どうぞお先に”という合図が繰り返されていたことを思い出す。でも、それも昔の話でいまでは“自動車優先”で、車を運転しているときには止まるのは赤信号の時といつの間にか思い込んでいたが、この街ではそうではなかったので驚いた。この街はひょっとするとひとに優しい街なのであろうか。
 説明が遅くなったが1枚目の写真は、車道を自転車(法規上は自動車)で走る人の安全に配慮した道路(多分市道)に記された表示である。片道1車線の道路幅にかなり余裕がありそうな感じのところには、きれいな青色で自転車は左側通行でここを走れと指示されており、自転車で走ることの多い私には安心できるスペースである。また、それほどスペースのない道路の場合には、それでも自転車は左側を走りなさいとの指示が徹底しているために、かって私が住んでいた高槻で頻発する自転車の逆走を見ることはまれであり、より安全が確保されている。このような自転車の安全走行のための表示の設定などは今年度の終わりには総距離がおよそ50キロになるとされ、比較的平坦なこの市での自転車利用促進に大きく寄与している。
 2枚目の写真では、歩行者のスペースが少なくて危ない道路では、狭くともそこを歩くべしと黄緑に近い色で指示されており、また自転車が飛び出してきそうな歩道にはその注意書きが大きく書かれている。いずれも歩行者の安全に配慮されている。こう見てくると、自転車の事故や自転車による歩行者の事故を減らすための施策が着実に進められており、弱者保護の立場が明確にされている。市の広報によれば、過去5年間で交通事故は30%も減少したとされ、このようなきめ細かな施策が命を守ることに大きく寄与していることがうかがえる。
 もうひとつ驚いたことがある。それは市内に張り巡らされた遊歩道網である(3枚目の写真)。幅およそ2.5メートル程であろうか、歩きやすいアスファルト舗装がされていてバイクは立ち入り禁止である。その遊歩道の周りには桜やハナミズキ、さらにさまざまな花が植えられていて気持ちを落ち着かせてくれ、不思議なことにリンゴ園やブドウ園もあるところに張りめぐらされているのである。上にも書いたが南北に長い大和市は比較的平坦でウォーキングやジョギング、それにサイクリングなどを楽しみやすい。それを見事に保証しているのがそんな遊歩道の設置である。週末は言うに及ばず平日にも各地に張り巡らされている遊歩道には多くの市民が繰り出している。私もそれを利用してしばしば相模大野や町田方面にまで足を延ばしており、そのうちに南の方にも行ってみようかと思っている。なんともありがたいトレーニング場である。
 このように見てくるとこの大和市に引っ越してきたのは正解のようである。しかしいいことばかりではない。実は私が住んでいる地区の上空は厚木基地を中心に活動する米国海軍航空隊と海上自衛隊の航空隊の発着訓練空域になっているようで、連日各種の飛行機が飛び交っている。特に横須賀を母港とする米国海軍原子力空母の艦載機の爆音は、ただただもの凄いと言うほかはない。それについてはあらためてこの日記帳に書くつもりである。

とうとう引っ越してしまった!

  • 2015/04/10 11:12

 定年退職後も未練がましくしがみつき、合計25年も住み続けた大阪・高槻を離れる決心をして1年、それを具体化して半年、とうとうそれを実行する時が来た。他人に引越の話をすると必ず言われることがある。それは、“歳をとってからの引っ越しはやめた方がよい”、“大変だよ”、のオンパレードである。そんなことを言われると心が折れそうになるが、逆に、それではうまく転居をやってやれという気にもなるから不思議である。その引越し準備をしながら、また引っ越した後の片づけをしながら感じたことは、日記帳にでも書いておかないとどんどん記憶があやふやになるということであった。また、私の関東への転居を知って2つの同窓会が私を誘ってくださり、その時に意外に私の日記帳を読んでくださる方々もいることを知った。そんなこともあって、また少しずつ日記をつけて頭の体操をしてゆくことにした。
 荷物の片づけや荷造りは昨年11月後半から始まったであろうか。物を捨てられない私はどんどんものを溜め続けてきた。それをちびりちびりと捨て始めたがなかなか減らない。特に減らないのが本の類であったが、それらのうち専門書は近くの大学に勤める知人に貰ってもらい、一般的な本は附属病院の待合室にでも置いてもらおうとお世話をかけることになった。少しずつしか捨てられない私なので、何度も何度もお世話をかけることになってしまって申し訳なかった。でも、それが私である。
 捨てられない資料もたくさん抱えていた。STAP細胞問題が注目を集める中、実験資料の保管が問題になったこともあり捨てるに捨てられない気持ちに悩まされた。かっての学者さんのように割にスペースのある家に住んでいる時代はともかく、我々のような貧乏なサラリーマン生活を余儀なくされてきたものにとっては保存スペースなどありはしない。これまで住んでいたマンションには幸いトランクルームがあったのでそこに放り込んでおけばよかったが、今度の引っ越し先にはトランクルームもなく、どうしようもなかった。思い切って論文として公表されなかったものの資料だけを残すことにした。STAP問題の時の判断とは逆の対応をしたのである。
 とにかく、できるだけ荷物を減らして段ボールに詰め引っ越しに備えた。一枚目の写真で分かるように、何週間か段ボールに囲まれた、ただ寝るだけの空間がある部屋に住んでいたのである。そして、今年の1月14日についに引っ越した。2枚目の写真にあるように、引っ越しは大手ではなく、比較的新しく、対応の良かったマイスター引越センターにお願いした。引っ越しの様子を見ていると目からうろこが落ちるようなことの連続で、あっという間に積み込み、翌日雨中での搬入でもあっという間の離れ業であった。ただただ感心した。
 引っ越し荷物をあけながら、どこに何を入れたかがはっきりしないのにはいささか驚いた。百何十箱をあけてもなお見つからないものがかなりの数に上ったのである。それらはこの3か月の間に徐々にどこからともなく現れてはきたが、それでもなお見つからないものがあるのである。まったくどうしようもないというのが本音である。
 そんなことはいろいろあるが、終の棲家となるであろう今回の引っ越し先は神奈川県の小田急沿線で、最寄の駅からも近く買い物にも不自由せずで問題はない。そのあたりのことはまた折に触れて書くとして、引っ越しの当初疲れた私を和ませたのは、私の部屋の眼下に広がる幼稚園や小学校のグランドである(3枚目の写真、下2枚は1月30日の大雪の時の写真である)。緑にもあふれ、週末を除いて朝早くから子供たちが集まり、授業が始まる前にグランドでサッカーボールを蹴ったり一輪車で駆け回ったり、鉄棒やブランコで遊んだりする姿を見ることは気持ちの良いものである。大阪にいるときもマンションの前の通りを多くの子供たちが朝夕通って話し声が聞こえていた。いまもそうである。厚木基地発着のジェット戦闘機の轟音にさえぎられてもなお聞こえてくる。この日記帳を机に座って書きながら、左を見れば子供の姿が見え、耳を澄ませば声が聞こえる。それを楽しみながらこれからこの街になじんでゆきたいと思う。第一段階は終わりである。(写真はクリックで拡大してご覧ください)

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