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2011年09月22日の記事は以下のとおりです。

[完全復元] いまの時代はまさに新しいルネッサンスの時代か?

  • 2011/09/22 18:24

(この記事のオリジナルは2009年12月27日に書かれたものである)

 世界はいま“未曾有の大規模気候変動”と“強欲金融資本主義崩壊”への恐れの中にいる。その過程にあって我が国は”チェンジ”を選択した。それで? どうなる? どうする?
 私はこのブログの中で3回にわたって現在の鳩山政権がらみの問題で簡潔とはいえないものの様々な言い分を述べた。たとえば、「鳩山政権に対する『ないものねだり』のマスコミ論調(http://www.unique-runner.com/blog/index.php/view/21 )では、子ども手当に関しての「社会全体で子供を育てる」という「哲学」がある新聞論調からは見捨てられていると指摘した。あるはまた、「コンクリートから人へ」との哲学も、着工しながら途中で予算カットしなければならないダム建設などに関わる住民などの不満などに報道が集中して、肝心のその哲学あるいは発想の転換に対するマスコミ自身の評価がほとんど語られることはない。また、世界に先駆けて1990年に比べて25%の炭酸ガスの排出削減を行うとの主張についてもマスコミ論調は、「産業に大きな影響を与える」「無謀な発言」などとネガティブな論調を強めている。あるいは、予算の決め方のひとつの新しい事始めである「事業仕分け」についてもその重要性を議論せず、揚げ足取りに徹している。
 それらはいずれもこれまでの発想の転換、あるいは価値基準の見直しそのものであるか、あるいはそのための先駆けになりうるものばかりである。そればかりではない。文部科学省から提出されていたスーパーコンピュータに関する「事業仕分け」の過程で、仕分け人から「スーパーコンピュータの分野で世界で一番でなければならないのか、二番ではだめなのか」との質問が飛び出し、周囲をあっと言わせた。
 この質問はその直後に野依良治氏などノーベル賞受賞者を担ぎ出した文部科学省の戦略が奉公して若干の削減で済んだようであるが、しかし私から見ると科学を考える上で大きな一歩であるように思える。というのは、私の経験から言えば科学研究に向けられる予算(たとえば「科学研究費補助金」)の募集あるいは申請は、そのかなりの部分は全くのどんぶり勘定が多く、無駄のはなはだしい。審査する側も判断基準に困り果て、申請する側も削減されることを見込んでかなり多めに書くことはもちろん、一般的に言えば、“もっと研究を”なる言葉のオンパレードである。
 これは支給する側である文部科学省の目標設定あるいは審査が、本当に科学を理解した人たちによって行われているかとは信じられていないからで、それに対する研究者側からの逆襲である。さらに、長い間研究者に安定して支給されてきた研究費(校費とも講座費とも呼ばれた)が極端に減らされ、研究費が審査基準のあまりはっきりしない科学研究費にその重点が移ったことも逆襲の理由のひとつであろう。しかし、そのことがまた研究者の首を締め付けている。現在はなにか科学が国策の道具として使われており、1980年頃まで「科学は国の方針によって引きずられるものであってよいか?」などの議論が遠い昔のことのように思える。何とも嘆かわしい。
 研究者集団は、これは学会だが、“もっと研究を、もっと予算を”という以前に、自らが研究費配分方式の抜本的見直しと共に、国民に対して宣言すべきもっと大切なことがあるのではないかと思う。それなしではさらに自らの絞め続けられるであろうし、本当に科学の基礎部分で働いている研究者はもはや生き残れないであろう。そして、研究はもはや旧帝大と一部の公立大や私立大、そして理研に代表されるような大研究所に集約されてしまう。そして、多くの研究者の卵が路頭に迷うことは間違いないであろう。いや、既に迷っている。
 
 またもう一歩踏み込んで言えば、事業仕分けにおける議論の対象を「スーパーコンピュータ」から「GDP」(国民総生産)に置き換えてみてはどうだろうか。なぜ世界第3位への転落は危機的なのか?いまでも日本のGDPはアメリカに次いで世界第2位である。しかし、世界第1位のアメリカと第2位の日本は、それほど豊かな国なのであろうか。貧困率という統計的な数字が最近注目を集めているが、「OECDの2000年半ばの統計によれば、日本の相対的貧困率は14.9%で、メキシコの18.4%、トルコの17.5%、米国の17.1%に次いで4番目に貧困率が高かった(OECD加盟国の平均は10.6%)。逆に、西欧諸国は大半が10%以下であり、全調査国中最も低いスウェーデンとデンマークの5.3%を筆頭に、北欧諸国の貧困率が低い。日本政府の2009年の発表では、日本は2006年の時点で15.7%だった(Wikipedia)。
 ヨーロッパ諸国や北欧諸国に比べてなぜか我々の方が物質的にも精神的にも貧しいような感じがしてならない。一体世界に冠たるGDPはどこに行ってしまったのであろうか?いや、GDPと言うと分かりにくいが、「お金、富}は一体どこに行ってしまったのであろうか。要するにきっと恐ろしいほどの「富の局在」が起きているのである。アメリカでは1%の国民が99%の富を独占していると言われる。要するに日本でもよく似たことがあるのであろう。だから、急を要するのは「富の再配分」であり、「子ども手当」「高校授業料の無料化」などはその一つの手法であろう。
 そのためにこそ、新しい発想の転換、価値基準の見直し、などなどこれまでダラダラと続けてきた「ならわし」などを変えてゆかなければいけないのではないか。それが新しい“事始め”であることは誰が見てもわかる。しかし、マスコミはその未熟さや問題点ばかりをついてその重要性の議論をしない。かって日本が世界を惨めな戦争という惨事に引き込んだとき、マスコミはいかなる働きをしたのかをもう一度考えていただきたいものである。

 先日、たまたま京都の国立近代美術館でボルゲーゼ美術館展を観た。「イタリア、ローマ市北東部の広大なボルゲーゼ公園に位置するボルゲーゼ美術館は、名門貴族であったボルゲーゼ家歴代のコレクションで知られており、世界に名だたるルネッサンス・バロック美術の宝庫」(展覧会美術館のHPより)だそうである。私は良い物は見たいと思ったから出かけたのであるが、そこで学んだことは、ルネッサンスとは「神から人へ」という価値判断基準の一大転換点だったということである。
 そんなことを考えると、「コンクリートから人へ」というキーワードはあらゆる課題を克服する内容を包含できるようにも思う。どの内閣がそれに向かって足を踏み出せるかはある意味どうでもよい。いまの時代の国民が“大いなる覚悟”を持ってそれに手を付けられるかである。“大いなる覚悟”とは、“チェンジへの助走の時代に必要な我慢”である。もしそれに手を付けられるのであれば、それは後世からは「第二のルネッサンス」だったと呼ばれるのかもしれない。どうでもよいが、しかし、キーワードの言い出しっぺの内閣に大いに腕を振るってもらいたい。いつまでも初心者マークが点滅していては困るのである。

[完全復元] 鳩山政権に対する「ないものねだり」のマスコミ論調

  • 2011/09/22 09:46

(この記事のオリジナルは2009年12月23日に書かれたものである)

 今年の9月に発足した鳩山政権に対するマスコミ論調は、私には不必要に騒がしいような気がする。鳩山政権は様々な新しい試み、新しい方向性を打ち出している。例えば、外交で言えば東アジアにおける新しい共同体構想、公共工事の見直し、予算編成のこれまでにない透明性の確保、控除から手当てへと変更させつつ家計レベルへの支援などいろいろある。
 しかしNHKを含めてのマスコミの論調は、こぞって「ないものねだり」をしていると私には見える。現在の日本の不況は、結局のところこれまでの自民党政権が築いてきた内需軽視・輸出重視のつけが回ってきただけのことであろう。景気がよいときであっても企業は内部留保に努めて労働者への賃金アップを渋り、富の分配の公平性への舵を切ってはこなかった。つまりは、マスコミは今の不況の原因をサブプライムローンの問題にすり替え、これまでの自民党政権の施策そのものに踏み込んではいない。言い換えれば、自民党とマスコミは同じ穴のムジナである。
 例えば、昨日の読売新聞の記事を見てみればわかる。そのタイトルは「首相、妥協の『最終結論』」、「否めぬ小沢氏の影響」、そして「暫定税率『要望受入れ』 子ども手当『公約守る』」とある。これまでの方針決定などで「妥協」でなかったことなどあったのであろうか?妥協は悪いことなのであろうか?また、与党の幹事長の影響が予算編成にないなんてことは、もともとあるはずもないことである。また、与党の意向を受け入れることのどこに問題があるのであろうか?「暫定税率『要望受入れ』」は民主党の要望を受け入れたことを指し、「子ども手当『公約守る』」はなぜ要望受入れの下に書かれているのであろうか。いずれも、現政権へのネガティブな評価をその言葉の使い方の中に秘めさせた、いやらしいやり方である。ちょうど、凶悪犯罪人とおぼしき人が警察の留置場に入れられたとき、新聞が「出された食事もちゃんと食べたようだ」と書くべきところを、「出された食事も全部ペロリと平らげた」と書くのと同じやり方である。
 しかし最も大事なことは、その本質部分をどう評価するかであろう。例えば上の記事の中にわざわざ「哲学」という小さな見出しを付けた部分がある。その内容はと言えば、それは「同じ記事の中の括弧でくくられた部分、すなわち「社会全体で子供を育てる」ことだと分かる。しかし、この「哲学」についての評価はこの記事には一言もない。ただ、「哲学」をあざ笑うような感じで持ち出しているにすぎない。すべてがこのような感じである。「事業仕分け」でもそうだった。初めての試みで問題は幾つもある。しかし、それが新しい事始めであることは誰が見てもわかる。しかし、マスコミはその問題点ばかりをついてその重要性の議論をしない。自民党議員の何人かが自分たちもやりたかった、と述べていたにもかかわらずである。
 書き始めるときりがない。私は現政権がすべて良いなどと思うほどお人好しではない。でも、これまで何十年にわたって続きながらどうしようもない自民党政権に対して国民が罵声を浴びせ、そして倒した後にできた政権である。だから、現在行われているマスコミの批判は大きな問題である。私は今のマスコミの論調は、「ないものねだり」だと感じている。現政権はこれまでの政権と異なり様々な新機軸を打ち出している。しかし批判は、その不十分さやその実行における未熟さに向けられているように見える。
 はたして新しい政権を根付かせ、育て上げる方向を向いているのか、あるいは自民党がやるようにタダ倒すためにだけにやられているのかは、見ていればわかる。大方自民党と同じである。その最大の問題点は、上にも書いたが、新しい方針をこれまでの自民党のそれと対比して評価し、問題点があればその修正の方向を明示することだろう。残念ながら今のところNHKを含めて各マスコミの論調は「ないものねだり」ばかりで私の気に入らない。ただ、昨夜見たテレビ東京計れるの「ワールド・ビジネス・サテライト」(WBS)は「子ども手当」問題に関して、「富の再配分」と「控除と手当」という関係から前向きな落ち着いた議論をしていたのが注目される。それを聞いて私もちょっと勉強してみたいと思えた。

[完全復元] というサブタイトルのついた記事が登場する!

  • 2011/09/22 09:30

 ブログのファイルが失われたということはすでに書いた。そのため、残った写真を参考にしながら当時書いたであろう文章を付けて復元したものを[簡易復元]と言うサブタイトルをつけて書いてきた。しかし、幸いなことに私が友人に託したブログ30編のプリントアウトが保存されていたことが分かり、それを譲り受けることができた。
 しかし、残念ことにそのブログは2009年12月末から2010年8月までの中からの30編で、それ以外、特に今年3月11日に起こった東日本大震災関連のものは全く入ってはいない。それらについては、できるだけ記憶をたどってそのうちの幾つかについてでも[簡易復元]させたいと考えている。
 それはともかく、今回入手できたプリントアウトを丹念に[完全復元]に持ってゆきたいと思っている。再度皆さんの目に触れることができれば幸いである。

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