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2011年11月の記事は以下のとおりです。

「大阪市立 自然史博物館」はなかなか面白いところだ!

  • 2011/11/28 18:09

 私も一応は生物学でご飯を食べさせてもらってきた人間だが、もう10年近くそこから離れて生活していると、残念ながらその辺りのことはさっぱりわからなくなってしまう。私は時々大阪市の長居公園に出かけるので、そこの大阪市立自然史博物館で特別展示として「海はモンスターでいっぱい」なる面白そうな展示が9月10日から行われていることは知っていた。でも、まだ大丈夫まだ大丈夫とばかり思っていたところ、あっという間に11月27日の最終日になってしまい、慌てて出かけることにした。
 私は生物化学分野から生物学に入った者なので自然史的な、あるいは博物学的なことには全く疎いのを自覚している。したがって、「海はモンスターでいっぱい」なんてテーマでの展示は私にとっては大いに勉強になるのである。例えそこに存在する情報の何百分の一しか頭に入らなくても大丈夫、大いに楽しくまた助かる。
 1枚目の写真の上は特別展への入場券、下は特別展示への入り口である。この入口の左側には植物園への入り口もあり、自然史博物館を含めて大きな施設がある。もちろん、よく知られているように長居公園には二つの大きな競技場があり、また一周2.8キロの周回コースが公園内を走っていて、この日もリレー競技も開かれていて公園全体に人が溢れていた。
 展示室は子供たちでいっぱいで、その最初の展示室にはナガスクジラの骨格標本の他にクビナガリュウの骨格標本が吊り下げられており圧倒された。また、シーラカンスなどの標本も何体か展示されており、およそ1メートルもあろうかと思われる巨大なアンモナイトの化石やカニの標本には驚かされた。まさに海はモンスターで一杯である。もちろん展示品の間には分かりやすく説明されたパネルがあり、どのような進化の過程を経て海の動物が出現してきたかを説明してあり、大いに勉強になった。2枚目の写真はそのひとつで、カンブリア紀の爆発的進化の説明がされていた。
 少し個別に見てみよう。3枚目の写真の上はクビナガリュウの骨格で、水中でなければ維持できなかったであろう長い首が印象的で、また写真では見にくいが体幹部の背中側にはもちろん肋骨があるが、腹側には福肋骨という骨格があり、胃の中にあった石を支えていたと考えられているようである。石は浮力の調節に使われていたらしい。下の写真は様々な進化段階のオウムガイの化石で、元々殻は直線的なものであったらしく、右上はその断面、右下はその直線の端部分が映っている。その後、徐々に巻貝のような形に変化して現在に至っていると思われている。オウムガイの化石は北アフリカで多く産出され、皿のようなものに磨かれて売られているらしく、私も友人から一枚いただいた。そこにも直線のオウムガイの化石が含まれている。
 4枚目の写真の上は見事なアンモナイトの化石で美しい。およそ直径30センチ弱の化石で、部屋の飾りにしたいほどの美しさである。アンモナイトの化石には直径2メートルのものもあるようである。アンモナイトはオウムガイから派生したものだとの説もあるが、どちらかといえばイカやタコに類似しているとも言われ、その起源については確定していないらしい。下の写真は生きた化石と言われるシーラカンスである。これ以上写真を掲載するのは難しいが、さまざまな魚類、三葉虫、サソリなど面白い標本がいっぱいであった。本当は頭を整理してもう一度見たいものであるが、もう終わってしまったのでまたの機会に期待したい。
 特別展示室を出て食堂でそばを食べてから常設展示館に移動した。そこはかなりゆったりした展示館で、関西地区の地質学的な意味での成り立ちやそこの植生、あるいは様々な動物の種類などがかなり詳しく展示されている。また、動物の発生などについてもかなり詳しく語られており、思わず昔のことを思い出した感じがした。そんな数ある展示の中にチョウの移動の話があった(5枚目の写真)。
 私が芥川の河川敷のミズヒマワリに集まっていたアサギマダラのことについてブログを書いたが(http://www.unique-runner.com/blog/index.php/view/67 )、その底知れぬアサギマダラの「チョウの渡り」の展示がある。それとは少し違うがかなりの移動を行うイチモンジセセリのことも触れられていた。この蝶の幼虫は三十四種類のイネ科、タケ科、カヤツリグサ科を食べているが、夏期はほとんど稲に限られているようで、かっては農家の大敵として恐れられていたようである。いまは農薬などで管理されているため以前ほど見られなくなったようである。夏の間稲の葉を食べて育った幼虫は8月末には羽化し、南西方向に移動して食草を変えるようである。でも、その移動距離は100キロメートル程度らしく、1000キロメートルと言われる」アサギマダラとは比べ物にならないようである。しかしそれでも、依然として渡りの真相は完全に把握されているとは言えないようである。来年の夏には稲の葉っぱを注意深く見てみたいと思う。
 自然は、なぞの宝庫であり、その中に思わぬ、そしてとてつもない真理が隠されている。私もまだまだそんな隠された自然の謎を知りたいものである。

第1回神戸マラソン 復興の街にひとが溢れた!

  • 2011/11/23 20:08

 私はこの記念すべき第1回大会への参加も大阪マラソン同様に抽選に漏れ、写真屋として参加するしかなかった。しかし私の仲間が3人参加し、その内の2人がカメラを持って参加したので、ランナーが見た神戸マラソンを話してもらうことにし、私の写真もそこに加えることにした。彼らや私の見た神戸マラソンとは次のようなものである。
 前日までの激しい雨が嘘のように快晴に転じた日曜日、ちょっと風が強く気温も高かったがとても気持ちよく走れ、特に30キロまではゆっくりしたペースであったが周辺の景色を楽しみながら、また人々の応援を受けながら気持ちよく走り続けられたと言う。写真屋として参加した私は、9時過ぎから往路10キロ、復路25キロ地点であるJR須磨駅前でカメラアングルの良い場所を探し、コースの歩道に約4時間立ち続けた。
 その10キロ地点に9時33分ころトップ集団がやってきた。ゲストランナーのステファノ・バルディニ選手(アテネ五輪金メダル)と若い長身の選手が走ってきた(1枚目の写真)。この若い選手が中山卓也(早稲田大)で、復路の25キロでもぶっちぎりのトップで折り返してきた。彼が優勝したこととあの中山竹通氏の御子息とは後で知ったが、これが良い転機になることを期待したい。しばらくして、女子のトップと思われる選手が男子に混じってやってきた。招待選手の小崎まり選手(ノーリツ)で、その写真を2枚目として掲載する。
 私と違って実際に走った仲間の1人は次のように言う。「大会は良い天気で当日をむかえた、寒さ対策のポンチョやレインコートは全く不要だった。神戸育ちの私が郷里を走れることは感慨深かった。スタート前のオープニングセレモニーでは遠路仙台からの八軒中学校『あすという日が』の素晴らしいメロデーの合唱が22,958人ランナーの胸を打った。
 いよいよスタート、大集団がソロリと動き出した、まるでベルトコンベアーに乗っている感じでこのままゴールへ運んでくれたら楽ちんてな事を考えながら逸る心を極力抑えて走り出した。阪神・淡路大震災で壊滅的な被害を蒙った長田区では、沿道の声援は大変素晴らしかった。地元の中学生がズラリ並び日曜にもかかわらず全校生徒が制服姿で力一杯ランナーに応援して貰い、自然と足取りが軽くなった。
 また、コース途中で色々なパフオーマンスがランナーを癒してくれた、和太鼓・獅子舞・音楽演奏・サンバチームのダンス等で須磨海岸では大漁旗をなびかせた数十隻の漁船のパレード、とくに私はゴール近くのしおさい公園でのフラダンスに興味をもった。コース終盤給水の紙コップが無くなりやむ得ず手に水を注いで貰って飲んだ、時間のかかるランナーには給水が欠かせないので次回は改善を望みたい。しかし、市民の方が自宅から水をくみランナーに手渡す情景もありグッと胸にくるものがあった。市民の応援者が入れない浜手バイパスでは、大会ボランティアの方々が急坂の難所で一般観衆に代わり一生懸命応援してくれたこと、それもひとりでなく全員が声をからしてランナーを後押ししてくれて大変有り難かった。
 ゴールの関門時間には少しの余裕をもってゴール出来た、これも沿道の声援や支援のおかげだと思い完走に感動した。ゴール後に手荷物を引き取るため指定のブロックへ着くとボランティア(高校生)がもう荷物を抱えて渡してくれた、早いのに一瞬驚いたがどうやら遠くのゼッケンナンバーを見て素早く荷物を探し出している様子、他のランナーへも同様の気配りで疲れた時のこの対応に感謝した。」
 そんな感謝の気持ちを持ちながら走り続けたというが、30キロを過ぎると心配したように脚が動かなくなり、歩くことが多くなってきたらしい。そんな歩く姿がテレビカメラに撮られていたと、あとから私から聞かされて彼は苦笑いをしたが、それも練習量を考えるとやむを得ないことだと自覚していると言う。

 走り終わってからこんなことも考えた、と彼も言うし私も思う。それは、神戸は阪神・淡路大震災以来16年間、街は見かけ上はほとんど回復したが、今回ほど多くの人々が沿道に集まり(52万人以上と言われる)、“がんばって!”と大きな声を上げて人々を励ましたことはなかったのではないかと思う。それは、まるでかっての大震災時に数えきれないほど多くの人々から被災地に向けられた激励の言葉へのお礼のようにも聞こえた。あるいは、今までこれほど大きな声を出すことを控えてきた人々の心からの叫びだったのかもしれない。また私がいた須磨駅前では、コース沿いに水道のホースを引っ張ってきて、そこでコップに水を入れてランナーに水や食べ物を差し出していたグループもいくつか見かけた。今回の神戸マラソンが、そんな小さなボランティア活動や大声を出してランナーを応援する活動を手助けできた大会であったとしたら、それはおそらく他の都市の大会にはできないユニークな役割だったのかもしれない。そんな想いを、走るランナーも写真撮影で沿道にいた私も感じた神戸マラソンであった。ひょっとするとその点が、大阪マラソンに比べてユニークだったかもしれないと思う。
 なお、3枚目と4枚目の写真は、走った彼らが撮ったものや私が沿道で撮ったものをコラージュ風にまとめたもので、走った仲間3人の姿とマラソン当日の様々な風景である。その雰囲気を感じていただければ幸いである。

[簡易復元] はじめての「造幣局 桜の通り抜け」を楽しむ

  • 2011/11/22 09:18

(この記事のオリジナルは2011年4月20日に書かれたが、ファイルが失われたため新たに書き直す)

 もう20年以上大阪にいながら、未だ一度も「造幣局 桜の通り抜け」を楽しんだことのなかった私たちは今年初めて、「通り抜け」終盤の人の少ない時を狙って訪れることにした。造幣局とはどんなところなのであろうか、また、なぜ「桜の通り抜け」なるものが行われるようになったのかをWikipediaに訊いてみたら、次のように答えた。
 「造幣局とは、大阪市に本局があり東京都と広島市に支局がある。造幣局は、近代国家としての貨幣制度の確立を図るため、明治新政府によって大阪の現在地(大阪市北区)に創設され、明治4年4月4日に創業式を挙行し、当時としては画期的な洋式設備によって貨幣の製造を開始しました。その頃我が国では、機械力を利用して行う生産工業が発達していなかったため、大型の機械設備は輸入するとしても、貨幣製造に必要な各種の機材の多くは自給自足するよりほかなかったので、硫酸、ソーダ、石炭ガス、コークスの製造や電信・電話などの設備並びに天秤、時計などの諸機械の製作をすべて局内で行っていました。また事務面でも自製インクを使い、我が国はじめての複式簿記を採用し、さらに風俗面では断髪、廃刀、洋服の着用などを率先して実行しました。
 このように、造幣局は、明治初年における欧米文化移植の先駆者として、我が国の近代工業及び文化の興隆に重要な役割を果たしたので、大阪市が今日我が国商工業の中心として隆盛を見るようになったのも、造幣局に負うところが少なくないといわれています。その後、造幣局は、貨幣の製造のほか、時代の要請にこたえて勲章・褒章及び金属工芸品等の製造、地金・鉱物の分析及び試験、貴金属地金の精製、貴金属製品の品位証明(ホールマーク)などの事業も行っています。」
 そして、「通り抜け」の現状については、「毎年4月中旬頃の桜の開花時には、造幣局構内旧淀川沿いの全長560mの通路を一般花見客のために1週間開放しています。現在構内にある桜は、関山、普賢象、松月、紅手毬、芝山、楊貴妃など約120品種、約350本を数えていますが、大半は遅咲きの八重桜で、満開時の美しさはたとえようもなく、明治16年に開始した『通り抜け』も昭和58年春には100年を迎え、今では浪速の春を飾る風物詩として、人々に愛されています。なお、紅手毬、大手毬、小手毬及び養老桜などは、他では見られない珍種と言われています。」とある。
 また、桜の通り抜けの始まりについては次に様に言う。「造幣局の所在地である大阪市北区天満の旧淀川沿いは、昔から景勝の地として名高く、春は桜、夏は涼み舟、秋は月見など四季折々のにぎわいを見せ、特に春の桜は有名で、対岸を桜ノ宮と呼ぶにふさわしく、この地一帯に桜が咲き乱れていたと言われています。明治16年(1883年)、時の遠藤謹助局長の「局員だけの花見ではもったいない。市民とともに楽しもうではないか」との提案により、構内の桜並木の一般開放が始まりました。」
 造幣局の桜は本当に美しかった。ただそれだけで十分だが、ちょっとだけ覚えていることを言っておこう。そこの桜はほとんどが八重桜で、いわゆるソメイヨシノは確か2本しかなかったと思う。どれをとっても美しいが、「今年の花」とされた「妹背」を一枚目の写真とし、2枚目は小さく菊のように咲く珍しい桜の「菊桜」、特に私が好きな、かなり緑がかった「御衣黄(ぎょいこう」という桜、少しだけ緑がかった「鬱金(うこん)」(これらの名前はうろ覚えである)を3枚目、4枚目の写真とし、最後に全くうろ覚えであるが「平野突羽根(ひらのつくばね)」らしい花の写真を出させていただく。
 これ以外に美しい花が無数に見られたが、写真はきりがないのでご容赦いただきたい。それにしてもここに集められた桜は珍品ぞろいのようで、毎年通り抜けが大混雑になるのも当然であろう。

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