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2011年11月01日の記事は以下のとおりです。

[簡易復元] 2010年夏の祇園祭、宵々山を行く

  • 2011/11/01 21:57

(この記事のオリジナルは2010年7月に書かれたが、ファイルが失われたため新たに書き直す)

 大阪・高槻に移って20年以上になるがいまだ観たことがない祇園祭を、2010年7月15日宵々山の日に京都を訪れ仲間とともに楽しんだ。祇園祭は八坂神社のお祭りで、悪霊払いの行事であることは承知しているが、その詳しいいきさつはWikipediaに尋ねるしかない。Wikipediaは次のように言う。興味津々の記述であるので、かなり長いが引用させていただく。
 「祇園祭(ぎおんまつり)は、京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼である。京都の夏の風物詩で、7月1日から1か月間にわたって行われる長い祭であるが、そのなかでも「宵山」(7月14日〜16日)、「山鉾巡行」(7月17日)、「神輿渡御」(7月17日)などがハイライトとなっている。宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、動く美術館とも例えられる。
 京都三大祭り(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)、さらに大阪の天神祭、東京の山王祭(あるいは神田祭)と並んで日本三大祭りの1つに数えられる。また、岐阜県高山市の高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭と並んで日本三大曳山祭の1つに、前述の高山祭、滋賀県長浜市の長浜曳山祭と並んで日本三大山車祭の1つにも数えられるなど、日本を代表する祭である。」
 また、祇園祭の成り立ちについては、「疫病の流行により朝廷は863年(貞観5年)、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行った。しかし、その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念した。869年(貞観11年)、全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来の化身・牛頭天王を祀り御霊会を執り行ったのがその起源であるという。祇園祭が生まれた直接の背景は、平安京がもともとが内陸の湿地であったために高温多湿の地域であったこと、建都による人口の集中、上下水道の不備(汚水と飲料水の混合)などにより、瘧(わらわやみ=マラリア)、裳瘡(天然痘)、咳病(インフルエンザ)、赤痢、麻疹などが大流行したこと。その原因が、先に大水害により挫折した長岡京遷都工事中に起きた藤原種継暗殺事件で無実を訴えながら亡くなった早良親王ら6人の怨霊の仕業との陰陽師らによる権威ある卜占があったこと、などである。さらに、1世紀後の970年(安和3年)からは毎年行うようになったとされる。これらの祭式は神仏混淆の儀式として成り立っていた。
 中世の一時期、八坂神社は北野天満宮と共に比叡山の支配下に置かれた時期があった。この時期、八坂神社は日吉神社の末社とされ、日吉神社の山王祭が行われない時に祇園祭が中止になったり延期になる原因となった。
 さらに室町時代に至り、四条室町を中心とする(旧)下京地区に商工業者(町衆)の自治組織両側町が成立すると、町ごとに風情を凝らした山鉾を作って巡行させるようになった。その後、応仁の乱での30年の中断や第二次世界大戦などでの中断はあるものの、現在でも続いており、1000年を超える歴史がある。なお、名称は明治維新による神仏分離令の影響で「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」より「祇園祭」と仏教色が排除されたものとなっている。
 室町時代以来、祇園祭のクライマックスは山鉾巡行であったが、現在ではいわば「巡行の前夜祭」である宵山に毎年40万人以上の人が集まり盛り上がりを見せるため、祇園祭といえば宵山を先に思い描く人も多い。
 ちなみに諺で時機を逃して用を成さないことを「後の祭り」というものがあるが、これは祇園祭の大一番である山鉾巡行・神幸祭神輿渡御が終わり、この後の祇園祭がたいしてメインとなるものがないことからこの諺が言われるようになったとされる。」
 これを読んでいると春日大社について書いたブログ(http://www.unique-runner.com/blog/index.php/view/84 )に出ているキーワード“神仏習合”“神仏分離”“廃仏毀釈”などの影響が祭りの形態、運営、名前などに強く出ていることが分かり興味深い。
 この祭りの最も特徴的なことは、京都の三大祭りの中で際立って庶民的なことであろうか。長い祭りの中で最もにぎわう14-16日には庶民が街にあふれ、無数の店が縁日のように立ち並び、そこで飲み物、食べ物を手に入れ、それを手に32基の山鉾の内お気に入りを見て歩くのである。私はそれが一番好きで、夕方辺りからぶらぶらしながら京都の路地裏を歩き回るのである。
 今回も、まあ一番の出し物であろう長刀鉾(1枚目写真)を見ながら烏丸方向に通り過ぎてから南に下り、室町通や新町通りを仲間とうろうろしながら飲み食いし、舩鉾(2枚目写真)などを見て回った。そして四条通を横切って新町通りを北に向かって歩いていく先を写したのが3枚目の写真である。その露店の先に移っているのは、多分北観音山であろう。松の形が特徴的である。それを楽しんでいたところ、突然雨が降り出した。思わずそばの民家の軒下に逃れてひょいと中を格子戸越しに眺めたところ、なんと鮮やかな山鉾(間違いなく北観音山であれば、鉾でなく山である)のミニチュアをその両脇に美しい屏風が飾られていた。思わず写真を撮ったのが4枚目の写真である。その鮮やかなこと!
 上のようなことを書くために山鉾のことを色々と調べ廻っていた時、なんと「ねこづらどき」というウェブサイトにほとんど同じ構図の写真が出ていたのである。そこには次のように書かれていた。「その風情の一つが北観音山の近くにある、藤井紋さんの屏風祭です。宵山ではそこかしこで屏風祭が開かれていますが、中でもここが一番見応えがありました。外から少し覗かせてもらっただけですが、豪華な屏風がずらりと並んだ様はなかなかの壮観ですよ。それに奥の方では町内会らしき人達が座敷に集まっている様子が垣間見え、昔ながらの祇園祭の夜の過ごし方がそのまま残っている様な気がして興味深かったです(http://naokun.cocolog-nifty.com/nekozura/2009/07/post-3e7d.html )。」
 私の写真には奥の座敷に人は座ってはいないが、それ以外は全く同じ構図で、このようなものを屏風祭と言うのだと分かりました。そうゆうつもりでいろいろと調べてみると、素晴らしいものがあちらこちらの旧家や老舗にあって、祇園祭の時にだけそれを見せてくれるらしい。是非、次の機会にはそれを目当てに歩いてみたい気分である。
 突然の大雨に気勢をそがれて錦小路に逃げ込み、阪急で高槻に戻り、駅前で一杯飲んで終わりとしました。5枚目の写真は翌日の山鉾巡行のテレビ中継で、四条河原町交差点を「辻回し」している山鉾の画像を撮ったものである。

第1回大阪マラソン開幕、御堂筋に人が溢れた!

  • 2011/11/01 11:13

 東京マラソンに遅れること4年、遂に大阪マラソンの号砲が鳴った。近年の市民ランナー増加に拍車をかけた2007年2月18日9時の東京マラソンのスタート、物凄く冷たい雨が降りしきる東京都庁前で30分はポンチョを着て立ち続けたときのことを思い出す。第1回の大阪マラソンも季節こそ違え同様の雨に見舞われるかと心配されたが、幸いにもそれも杞憂に終わり3万人が大阪城前をスタートしたらしい。
 私は抽選に外れたため、ジム仲間の応援と東京から参加した友人の応援のために9時過ぎには難波の交差点にカメラを持って駆けつけた。左右に見通しがよく、前に余計なもののない場所を探し回っている間に大阪城方面から走ってきた先頭集団が難波交差点を右折して、御堂筋を北上していった。その中には市民ランナー上がりの川内選手が頑張っていた。私は北行き6キロ地点、南行き17キロあたりに相当する位置の難波交差点北西角の側道側にたってランナーを待った。両方向のランナーが見られるからである。
 その後招待選手らが続きしばらくして市民ランナーや女子選手も見えてきたが、不思議なことに往復6車線ある御堂筋の北行きの側道を走っているのである。先頭集団が走っているときにはどこを走っているのかは気にならなかったが、スタート後30分時点で大勢の市民ランナーが混雑した状態で6キロ地点に差し掛かってきて初めて、なんと側道を走っていることに気が付いた(2枚目の写真、この中に友人がいる)。
 その内に、あまりに大勢のランナーが側道を走ることになったので、パラパラと側道ではなく本道(と言うのかどうかは分からない)4車線のうちの北行き方面の空いている右側2車線を走るランナーが出始め、その内に、間寛平さんが登場してくる時刻になると側道と本道分け隔てなく走るようになって落ち着いてきた。6キロを走ってなお混雑するようなことは尋常ではない。なぜ側道を走らせたのだろうかと不思議でならない。スタート地点から広い道路を使う東京ではちょっと考えられないことである。大いに改善の余地がある。その側道を大勢のランナーが走っている写真が2枚目で、相変わらず愛嬌を振りまいて走っている間寛平さんの写真が3枚目である。
 そうこうしているうちに御堂筋を北で折り返してきた男子のトップグループがやってきた。その中には日本のトップ選手にまで成長した川内選手が頑張っていた。その写真が4枚目である。その後リディア・シモンと嶋原清子選手らが走ってきたが、もたもたしていて間に合わず、なんと後姿の写真になってしまったのは、私の未熟さの表れで情けない(5枚目の写真)。
 しばらくジム仲間を探していたが諦めて、今度は難波交差点の南西角に移動してより良いカメラアングルを求めたが、結局移動が遅すぎてここにお見せする以上の写真を撮ることはできずに私の大阪マラソンは終了した。
 レース結果は既に報告された通りで、大阪で10回目というマラソンで優勝したリディア・シモン、それに嶋原清子選手の頑張りと、サング選手のスピード、川内選手の闘志が称賛される。上に私が指摘した側道の問題はきっと来年には解決されるだろうと期待しており、その時には私も走りたいものである。また、新聞によれば、沿道で100万人の市民が応援したと伝えているが、東京マラソンに劣らぬ熱気が感じられ、またボランティアらによる整理、道案内、特に地下街における道案内は、私も頼りにしたが、非常に丁寧に行われていた。私は東京マラソンの経験から、東京も捨てたものではないとHPに書いたが(http://www.unique-runner.com/tokyo2007.htm )、今回の大阪マラソンに応援者として参加して、やはり大阪も捨てたものではない、実にうまく運営したと強く感じた。この大会の今後の成長を期待したい。なお、1枚目の写真は、読売新聞10月31日朝刊の34-35ページを縦につないだものである。

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