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2011年10月27日の記事は以下のとおりです。

[簡易復元] 2009年夏 東北3泊4日の旅(1)小岩井農場から宮沢賢治のふるさとへ

  • 2011/10/27 10:48

(この記事のオリジナルは2009年8月に書かれたが,ファイルが失われたため新たに圧縮して書き直す)

 2009年夏は甲子園を席巻した花巻東高校・菊池雄星投手の夏であった。私は毎年のように甲子園に出かけるが、その年には8月21日準々決勝戦の花巻東高校vs明豊高校戦を観戦に出かけた。私は菊池投手が好きだったので首尾よく準決勝戦へコマを進めたのを見とどめて一安心し、その翌々日の23日伊丹空港から花巻空港に飛び立った。でも、その明豊戦の何回だったか、菊池投手が見せた肩か背中かの変調のしぐさに私はかなり不安を抱いていた。
 それはともかく、快晴の花巻空港に降り立ち、直ちにレンタカーを借り、東北自動車道を北に上がって小岩井農場に向かった。小岩井農場というのは、日常の乳製品の製造・販売で有名で、よくお世話になっている農場で、はたしてどんないきさつで出来上がったものかなど全く知らなかった。それについてWikipediaは次のように教えてくれた。
 「小岩井農場(こいわいのうじょう)は岩手県にある日本最大の民間総合農場である。盛岡市から西北約12kmに位置し岩手山南麓に約3,000ヘクタール(900万坪)の広大な敷地面積を誇り、その敷地の3分の2が雫石町に属し残り3分の1は滝沢村に属する。同場は岩手県の代表的観光地として知られ、『小岩井農場まきば園』等の施設が一般に開放されている。」。そして、その歴史については面白いことが書かれている。
 「1890年(明治23年)11月1日に日本鉄道が東北本線を盛岡駅まで延伸開業した翌年の1891年(明治24年)、日本鉄道会社副社長の小野義眞(おのぎしん)、三菱社社長の岩崎彌之助、鉄道庁長官の井上勝の三名が共同創始者となり3名の姓の頭文字を採り「小岩井」農場と名付けられた。当時のこの地域一帯は、岩手山からの火山灰が堆積し冷たい吹き降ろしの西風が吹く不毛の原野で、極度に痩せた酸性土壌であったという。そのために、土壌改良や防風・防雪林の植林などの基盤整備に数十年を要した。
 1899年(明治32年)に三菱のオーナー一族・岩崎家の所有となる。(…中略…) 1938年(昭和13年)より小岩井農牧株式会社として事業活動を行っており、現在は酪農・種鶏・たまご・山林・環境緑化・技術研究・観光・農場商品販売等の事業を行っている。」
 これを読むとこの農場の歴史とその整備の大変さが浮かび上がってくる。そこにはあのNHK大河ドラマ「龍馬伝」にも出てきた、香川照之扮する岩崎彌太郎が設立する三菱社という民間会社と鉄道関係の官民一体となった大掛かりな開発が行われたことを示していて興味深い。
 一般に開放されているのは1枚目の写真の上の部分にある小岩井農場まきば園」で、そこで広々とした芝生と様々な動物とのふれあい場所、乳製品売り場などの散策を楽しませてもらった。その雄大な広さを示す写真もその組み写真にした。はるか向こうに見えるのは岩手山である。
 小岩井農場を出てから盛岡市に向かい、宮沢賢治の本などを出版したことで知られる光原社のある街並みを散策した後、東北自動車道を南下して花巻温泉に一泊し、翌日宮沢賢治ゆかりの地・花巻を歩き回った。そこには「宮沢賢治記念館」、「宮沢賢治イーハトーブ館」、「宮沢賢治児童村」などいくつもの施設が配置されている。その宮沢賢治についてWikipediaで勉強した。
 「宮沢 賢治(みやざわ けんじ、本名:宮澤-、1896年(明治29年)8月27日(戸籍上は8月1日)- 1933年(昭和8年)9月21日)は、日本の詩人、童話作家。郷土岩手の地を深く愛し、作品中に登場する架空の理想郷に、岩手県をモチーフとしてイーハトヴ(Ihatov、イーハトーブあるいはイーハトーヴォ(Ihatovo)等とも)と名づけた。その空前・独特の魅力にあふれた作品群によって、没後世評が急速に高まり国民的作家とされていった。
 1896年(明治29年)8月27日、岩手県稗貫郡里川口村(のちに花巻川口町から花巻町を経て、現・花巻市)に質・古着商の宮澤政次郎(1874年 - 1957年)とイチ(1877年 - 1963年)の長男として生まれ、戸籍の届出は1896年8月1日付けでなされた。賢治が生まれる約2ヶ月前の6月15日に『三陸地震津波』が発生して岩手県に多くの災害をもたらした。また誕生から5日目の8月31日には秋田県東部を震源とする『陸羽地震』が発生し、秋田県及び岩手県西和賀郡・稗貫郡で大きな災害が生じた。この地震の際に母は賢治の入ったえじこ(乳幼児を入れる籠)を両手でかかえながら上体をおおって念仏を唱えていたという。(…中略…) 1933年(昭和8年)9月21日に急性肺炎で死去した。享年37。法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言。生涯独身であった。死の前日、農民に夜遅くまで肥料の相談を受けていたという。(…中略…)この年3月3日に『三陸沖地震』が発生し、大きな災害をもたらした。誕生の年と最期の年に大きな災害があったことは、天候と気温や災害を憂慮した賢治の生涯と何らかの暗合を感ずると宮澤清六は指摘している。地震直後に詩人の大木実(1913年-1996年)へ宛てた見舞いの礼状には、『海岸は実に悲惨です』と津波の被害について書いている。」

 花巻で彼を表現する多くの資料などを見て感じたことは、彼はわずか37年の間に、詩人、童話作家、教師、農業指導家、地質学者、そしてまた音楽家でもあったように、膨大で多彩な活動をしたが、その中心は「特筆すべきは作者の特異で旺盛な自然との交感力である。それは作品に極めて個性的な魅力を与えた。賢治作品の持つ圧倒的魅力はこの天性を抜きには説明できない。」とWikipediaにも書かれて様に、自然と対峙し融合して生きる感性を抜きにしてはあり得なかったのであろう。
 それにしても短命であった。あの時代に彼は東京への往復はもちろん、農業指導などで伊豆大島などまで足を延ばして寸刻を惜しんで働いていたのであろう。また、彼の語学力は凄かったようで、当時の英語やドイツ語で書かれた原書を読みこなしていたことがうかがえた。わが父の書庫にも化学の原書が何冊もあったが、当時何かを勉強しようとすればそれしか手がなかったのであろう。
 そんな彼を知ることになった東北への旅の1年半後に「東日本大震災」が発生した。彼の生まれる2か月前の「三陸地震津波」や死の6か月前の「三陸沖地震」よりははるかに巨大な災害になってしまっているのは、不思議な巡り合わせである。写真は花巻で見たいくつもの記念碑的な写真を、組み写真にして記憶に留めようとするものである。
 なお、花巻東高校は菊池雄星投手の故障もあって、準決勝戦で中京大中京高校に残念ながら敗れてしまった。しかしこの年は、その一戦に勝って決勝戦に臨んだ中京大中京高校は、新潟文理大高校に6点リードの9回表、二死走者無しから奇跡の反撃で一点差まで追い詰められるという球史に残る戦いを演じた、忘れがたい年になったのである。

追記:書き忘れたことがあった。宮沢賢治の作品は、彼の死後主として草野心平氏の仲介によって行われたということである。思いがけないことに、私の母校、三重県立宇治山田高等学校の校歌の作詞は、草野心平氏である。

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