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2011年10月08日の記事は以下のとおりです。

山田中学―宇治山田高校野球部の系譜(2)

  • 2011/10/08 16:50

 山田中学―宇治山田高校野球部の系譜(1)で書いたことが、どうして私につながるかということをここに書いておきたい。このブログの内容は、ほかのブログもそうだが、ほぼ完全に私の個人的な記録に過ぎないことをあらかじめご了解いただきたい。
 系譜(1)に載せた写真をもう一度ここに出したい。その右下に「部員13人の宇治山田高 第39回三重大会で優勝」とある。この記事の中に「この年の宇治山田高は、三年生だけが男女共学で、一、二年生は新設の伊勢高校へ男子が集まったために、女生徒ばかりだった。そのため、野球部員が少なかった。そして、野球部は今年限りのはずだった(しかし、実際はのちに男女共学が復活した)。大正4年の第一回大会に山田中学が東海代表になっているので今年は『有終の美』を、の気持ちが周囲に渦巻いていたのだ。三重大会で抜群の力を見せた山高にとっても、三岐大会の壁は厚かった。河村投手を擁する多治見工を2-1でリードしていながら、8回裏にひっくり返されてしまった。」
 さらに私のこととして、「私は、中学時代(多気郡三瀬谷中)も選手でしたが、山高に進んでからは、通学に時間がかかるので(著者注、紀勢東線と参宮線の汽車を乗り継いで2時間弱)、野球をやめていました。ところが、いよいよ山高の野球部があと一年でおしまいになる。『甲子園、甲子園』という声が周辺でする。もうじっとしておれず、二年生の終わりに剣道部の村城君と一緒に野球部に入りました。それで部員の数が13人になりました」とある。
 なぜ父が、三瀬谷村という大田舎にいながらどうして山田中学に入って野球までしていたのかは全く不明で、どこでどう暮らしていたのかもわからない。しかし、私が中学を卒業する頃になると、なぜか卒業直前の3学期に、当時宇治山田市にお嫁に行っていた姉がいるからとそこに寄留し、越境入学の準備をしてしまっていたのである。だから、私の学歴では中学卒業は宇治山田市(今の伊勢市)の中学校なのである。それで当然宇治山田高校を受験し、首尾よく合格して、そして最終的に親父と一緒の野球部に所属することになったのである。
 山田中学が第一回大会に出場した(大阪府豊中市)後の大正6年父は主将として東海予選に出たが残念ながら破れて全国大会への出場はならなかった。その父が映っている大正6年の写真が3枚目である(後列一番左)。父はその後富山薬専などで勉強した後朝鮮にわたり、仁川商業の教師になった。そして野球部の監督となり、1936年、1938年、そして1939年の3度も朝鮮大会を制して甲子園にチームを引っ張ってきたのである。ほとほと感心する。だから、私は朝鮮生まれである。
 そして私もここの新聞記事にあるように甲子園出場はならなかった。そのときの甲子園の大会は第39回で、第40回大会は記念大会となりすべての都道府県から1校の出場が許されたのであるから、もう一年遅かったらと思わずにはいられない。
 最後の写真は、津球場で行われた三重県大会で優勝した時の写真である(私は後列左から3人目の選手である)。よく考えると充実した高校生活であったことを感謝している。なお、冒頭に書いたようにこのブログは完全に私自身のための記録であることをお許し願いたい。

山田中学―宇治山田高校野球部の系譜(1)

  • 2011/10/08 15:37

山田中学―宇治山田高校野球部の系譜(1)

 この記事のオリジナルは2009年秋に書かれたものであるが、それが失われたため新たな資料も加えて完全に再編成し直して書いておきたい。

 ことの発端はこうである。2009年の第91回全国高校野球選手権大会が8月8日からもちろん甲子園で開催されたが、その入場式の先導役を果たしたのは、なんとわが母校三重県立宇治山田高等学校野球部主将高橋俊平君であった。そして、始球式を務めたのは広島県立国泰寺高校野球部主将田中玲朗君であった。どうしてだろうか?
 1枚目の写真は、1984年7月31日付の朝日新聞(名古屋本社版)の夏の甲子園大会の広告ページである。これには私が取材を受けてその記事が右下にあるが、それは次のブログの話として、ここでは右上の記事の写真(拡大版)をご覧ください。タイトルは「第一回大会に『山田中』が出場」とある。この第一回大会出場校を「高校野球 甲子園優勝物語」(ベースボール・マガジン社、2007年)で調べると次のようになる。秋田中、早稲田実業、山田中、京都二中、神戸二中、和歌山中、広島中、鳥取中、高松中、そして久留米商の10校である。
 では、なぜ第91回大会に宇治山田高校と国泰寺高校が特別扱いされたかというと、宇治山田高校と国泰寺高校(前広島中)の2校だけが、その後の全国規模の大会への参加がないことと第一回大会への貢献を評価してのことだったようである。Wikipediaもその辺りの事情を、「開会式の入場行進先導役は宇治山田(旧制 三重県立第四中学校)、始球式は広島国泰寺(旧制 広島県立広島第一中学校)に選定された。これは第1回大会の出場10校中、両校のみが、それ以降の全国大会出場から遠ざかっていたためである」としている。
 入場行進を先導した高橋君の勇姿は3枚の写真におさめられている(白いシャツの胸に“Y”の文字がくっきりと輝いている)。それから2年の今年の大会にも宇治山田高校の出場はない。それにめげずに甲子園出場を目指して頑張ってもらいたいものである。
 なお、甲子園の写真は友人石川三雄氏から提供されたものである。ここに深く感謝する。

[簡易復元] 豪雨の甲子園でグランド整備を楽しむ

  • 2011/10/08 13:12

(これは2011年8月20日頃に書いたものであるが、簡単に復元しておく)

 第93回全国高校野球選手権大会は8月6日から15日間甲子園で開幕した。例年のごとく甲子園に出かける私としてはその機会を狙っていたが、最終日の前日の準決勝戦の2日目に出かけることにした。高校野球観戦は例年のこととて特に写真を撮ることも予定しなかったためにカメラは持参せず、また今年は東日本大震災のための電力事情切迫による早朝開始のことだけに集中してやってきた。
 少し記憶があいまいになってきたので正確ではないが、8時過ぎには球場に着いたがファンがいっぱいで大混雑。切符売り場に長蛇の列で、中央特別自由席(ネット裏で銀傘の下)に入ったのは8時半であった。比較的良い席に座って開始を待つこと1時間。確か開始は9時半であったと思う。対戦は、光星学院vs作新学院であった。
 開始がすぐに光星学院が先制し、試合は順調に進んでいたが3回頃だったであろうか、突然雨が降り出して試合が中断された。グランドキーパーの方々はマウンドとホームベース付近に大きなシートをかぶせて雨が上がるのを待っていた。そしてほぼ1時間かなりの雨が降り、試合再開が可能なのか私は心配になってきた。そこで思い立って持っていた携帯電話のカメラで写真を撮ることにした。特に画素数が素晴らしく大きいというカメラでもないので取りあえず撮っておくという感じで撮っていった。しかしそれがなかなか面白かったのである。なお、写真は解像度が悪いために4枚の写真を組み合わせて一枚の写真にしてあるのをお許し願いたい。
 雨が小降りになりだしたときの写真を組み合わせたものが一枚目の写真である。グランド全体が完全に水浸しなのがよくわかると思う。右上を見ると分かるが、暗くてライトが点灯されていた。そして雨が上がるとすぐにグランドキーパー15名が現れ、まずマウンドとホームベースにかぶせてあったビニールシートを順番に、水をこぼさぬように用心深く持ち上げ、ネット前まで持ってきてそこに水を流していた。その様子を映しているのが2枚目の組み写真である。
 その左下とその右の写真に白い四角いものが見えるであろう。それは、ベースほどの大きさで多分吸水性に優れたものを入れた袋のようなもので、それを水が溜まった各ベースの周りやマウンドの周りにおいて水を吸わせるのである。そしてそれに十分に水を吸わせた後で、そこに乾いた新しい土を入れ、いわゆるトンボでならしてゆくのである。沢山水が溜まった二塁ベース後方では、多分太い鉄釘を打ち込んで少し穴をあけ、そこから下の砂の層に水を流すようなこともしていた。
 その作業、15人全員で動き回って30分、見事に整備してゲームは再開となった。強打と好守備の光星学院は作新学院を圧倒して勝利し、陸奥に優勝旗を、と期待を抱かせる勝ちっぷりであった。3枚目の組み写真は、再開されたゲーム風景とグランドの外の風景の組み写真である。今年はどこにでも「がんばろう!日本」の横断幕が見える。
 その光星学院、20日の決勝戦では中盤から日大三高の打力と好守備に圧倒され、11-0と敗れて青森に優勝をもたらすことはかなわなかった。

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