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2011年10月28日の記事は以下のとおりです。

[簡易復元] 2009年夏 東北3泊4日の旅(3)毛越寺と中尊寺の平泉へ

  • 2011/10/28 21:27

 特別史跡・特別名勝である毛越寺と同じく特別史跡である中尊寺のある平泉を訪れた。毛越寺のホームページによれば、毛越寺について次のように言う。「毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡(もとひら)から三代秀衡(ひでひら)の時代に多くの伽藍が造営されました。往時には堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失したが、現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けています。平成元年、平安様式の新本堂が建立されました。」とある。
 毛越寺で特に有名なのはその庭園で、ホームページによれば「仏の世界すなわち浄土を地上に表現したと伝わる浄土庭園・・・。大泉が池は浄水をたたえ、その周辺には、州浜、荒磯風の水分け、浪返しにあたる立石、橋のたもとをかざる橋引石、枯山水風の築山、遺水などの石組を配し、この景観は平安時代に書かれた日本最古の庭園書である作庭記に基づいて作られてた学術的にも貴重な庭園です。800有余年を経た現在も、四囲の樹木の景観と相まって、なお変わらぬ美しさを見せています。」と書かれている。
 その庭園は、本当に、私どもではとても言葉に表せぬほどの美しさである。それはけばけばしく美しいのでもなく、華麗に美しいのでもなく、控えめに美しいというのでもなく、それはただただ美しいのである。1枚目の写真は毛越寺の入り口、2枚目はから4枚目までは言葉では説明できない庭園の美しさを表す写真である。
 この美しい庭園からそれほど遠くないところに中尊寺はある。毛越寺は平地にあるが、中尊寺は小高い山の中をゆっくりと登ってゆくとひっそりと建っているお寺がある。中尊寺はけばけばしいお寺でもなく、古びた普通のお寺のように見えた。しかし、その来歴は悲惨を極めたすさんだ戦乱からの復興、さらに極楽浄土の世界を目指したものだと言われる。それが中尊寺から少し奥に建てられている金色堂であろう。そのことについてWikipediaは次のように言う。かなり長いが引用したい。
 「中尊寺(ちゅうそんじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院。奥州三十三観音番外札所。山号は関山(かんざん)、本尊は阿弥陀如来。寺伝では円仁(慈覚大師)の開山とされる。実質的な開基は藤原清衡。奥州藤原氏三代ゆかりの寺として著名であり、平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂(こんじきどう)を始め、多くの文化財を有する。1979年(昭和54年)5月22日、『中尊寺境内』として国の特別史跡に指定された。
 2001年(平成13年)に世界遺産登録の前提となる暫定リストに「平泉の文化遺産」の一部として記載されたが、2008年(平成20年)の第32回世界遺産委員会の審議では、登録延期が決定した。文化庁・岩手県では、ユネスコへの再度の申請を行い、2011年(平成23年)5月に国際記念物遺跡会議が世界遺産への登録を勧告、同年6月に世界文化遺産に登録された。
 奥州藤原氏の初代、藤原清衡は前九年の役のさなかの天喜4年(1056年)に生まれた。清衡の家系は藤原秀郷の流れを汲むという。清衡が7歳の時、彼の父藤原経清は、安倍氏に味方したかどで斬殺された。清衡の母は安倍氏の出であったが、夫経清が殺害された後、安倍氏とは敵対関係にあった清原家の清原武貞と再婚。清衡は清原武貞の養子として『清原清衡』を名乗ることになる。つまり、清衡は前九年の役で滅亡した安倍氏の血を引くとともに、後三年の役で滅びた清原家の養子でもあった。清衡の兄弟には兄・真衡(清原武貞と先妻の子)と、弟・家衡(清衡の母と清原武貞の間に生まれた子)がいた。真衡は弟の清衡・家衡とは対立していた。真衡の死後、彼が支配していた奥州の奥六郡[2]は、清衡と異父弟・家衡に3郡ずつ与えられたが、これが元となって今度は清衡と家衡の間に争いが生じた。清衡は源義家の助力を得て戦いに勝利し、清原氏は滅亡した。この一連の内紛を『後三年の役』と称する。この合戦のさなか、清衡は館に火を放たれ、妻と子を失っている。その後、清衡は現在の岩手県にほぼ相当する奥州奥六郡を支配下に収め、父の姓である「藤原」を名乗って『藤原清衡』と称するようになる。清衡は寛治3年(1089年)には陸奥押領使に任命され、嘉保4年(1094年)頃には居館を江刺郡豊田館(とよたのたち、奥州市)から、中尊寺のある平泉に移している。このように、藤原清衡の前半生は兄弟・親族が相争うもので、多くの近親者の死を目の当たりにしてきた。壮年以降の清衡が平泉の地に、都の大寺院にも劣らぬ仏堂を造立したのは、その莫大な経済力の背景があったこととともに、戦いに明け暮れた前半生を省み、戦没者の追善とともに、造寺造仏、写経の功徳により、自己の極楽往生を願ってのことであったと推測されている。(…中略…)
 平泉では、奥州藤原氏4代(清衡、基衡、秀衡、泰衡)約100年にわたって王朝風の華やかな文化が栄え、毛越寺(もうつうじ、基衡建立)、観自在王院(基衡夫人建立)、無量光院(秀衡建立)などの寺院が建立されたが、当時の面影をとどめるのは中尊寺金色堂、毛越寺庭園と、紺紙金銀字経などのわずかな遺品のみである。(…中略…)
 1909年(明治42年)に本堂が再建。1950年(昭和25年)に金色堂須弥壇に800年もの間、安置されていた藤原四代の遺体に対する学術調査が実施された。この結果、中央壇に清衡、右壇(向かって左)に2代基衡、左壇(向かって右)に3代秀衡の遺体が安置され、右壇にはさらに4代泰衡の首級が納置されていることが判明した。1958年(昭和33年)には天台宗東北大本山の称号を許され天台宗総本山延暦寺より不滅の法灯を分火護持される。1962年(昭和37年)より金色堂の解体修理が行われ、6年後の1968年(昭和43年)に創建当時の輝きを戻すことになる。」
 要するに、それまでのすさんだ戦乱の世を悔い改め、極楽浄土を地上に実現するものとして中尊寺とその金色堂、毛越寺とその庭園が創造されたと考えられており、金色堂の美しさにはただ恐れ多いという感じがしたのを覚えている。そのためか、金色堂については一枚の写真も撮ることはなかった。ただ、荒れ果てた中尊寺を嘆き、金色堂の美しさに目を奪われた芭蕉の句碑の写真を一枚撮ったのみであった。最後の組み写真の上が中尊寺、下がその句碑である。

[簡易復元] 2009年夏 東北3泊4日の旅(2)「遠野物語」の里へ

  • 2011/10/28 11:41

 「宮沢賢治記念館」などのある花巻を離れて、今度は太平洋岸に向かって走り遠野を訪れた。その遠野の名を知らしめたのは、私は読んではいないが、柳田國男の「遠野物語」なのであろう。それはこの地方を表現する格好の材料であるので、それについてのWikipediaの情報を参照した。
 「『遠野物語』(とおのものがたり)は、柳田國男が1910年(明治43年)に発表した説話集。日本民俗学の黎明を告げた名著である。現在は、岩波文庫、角川ソフィア文庫、集英社文庫等にある。
岩手県遠野町(現・遠野市)出身の小説家・民話蒐集家であった佐々木喜善によって語られた遠野盆地~遠野街道に纏わる民話を、柳田が筆記・編纂し自費出版した初期の代表作。その内容は天狗、河童、座敷童子など妖怪に纏わるものから山人、マヨヒガ、神隠し、死者などに関する怪談、さらには祀られる神、そして行事など多岐に渡る。『遠野物語』本編は119話で、続いて発表された『遠野物語拾遺』には、299話が収録されている。もう一人大きな影響を与えたとされるのが、やはり遠野出身で、佐々木喜善の先輩格である伊能嘉矩であった。
 1910年、僅か350部余りで自費出版(聚精堂)された。柳田の前著である『石神問答』は、難解だったためかあまり売れ行きが芳しくなかったのに対し、『遠野物語』は僅か半年ほどで印刷費用をほぼ回収できた(200部は柳田が買い取り知人らに寄贈した)。寄贈者では、島崎藤村や田山花袋・泉鏡花が積極的な書評を書いた。『遠野物語』を購読した人たちには芥川龍之介や南方熊楠、言語学者のニコライ・ネフスキーなどがいる。特に芥川は本著を購入した当時19歳であったが、親友に宛てた書簡に『此頃柳田國男氏の遠野語と云ふをよみ大へん面白く感じ候』と書き綴っている。当時はあくまで奇異な物語を、詩的散文で綴った文学作品として受け入れられた。
 民間伝承に焦点を当て、奇をてらうような改変はなく、聞いたままの話を編纂したこと、それでいながら文学的な独特の文体であることが高く評価されている。日本民俗学の発展に大きく貢献した。1935年に、再版覚え書きを入れた『遠野物語 増補版』(郷土研究社)が刊行されている。また初版復刻本『遠野物語 名著複刻全集』(日本近代文学館監修、発売・ほるぷ、新版1984年)も重版されている。」
 そんな遠野地方の背景を知るために最初に訪れたのは「遠野ふるさと村」でした。そこにあった古い家屋は凄く特徴的で、「曲り家」と呼ばれているようで、人が住む母屋と馬小屋がつながったL字型をしていた。1枚目の組み写真の下部分にあるように母屋の床は昔の民家がそうであったようにピカピカに磨かれていた。
 遠野地方は太平洋岸に近く、冬もそれほど雪は降らず、したがって冷え込みが厳し、-30度近くまで下がることもあるという。大事な農耕馬でもある馬は人と一緒に同じ屋根の下で暮らしていたのである。その馬小屋と母屋のつながった辺りには「馬釜」と呼ばれる大きな釜があり、2枚目の下の写真に書かれているように、冬でも暖かい餌を馬に与え、豆や山菜を茹で、蚕の繭をほぐして糸紡ぎをし、厩を温めていたらしい。また、その釜は常に生木を燃やして使い、あえて燻ぶらせて茅葺の屋根を虫害から守ったのだとされる。巧みな生活の知恵である。3枚目の写真は脱穀などに使われていた水車小屋、昔の私の田舎やこの地方どこでも飼われていた蚕は、久しぶりに「とおの昔話村」で見ることが出来た。4枚目の写真である。
 最後の写真は、遠野物語にも出てくる河童伝説で河童がたくさん住んでいたという「かっぱ渕」に河童をもした木彫りの像が建っていた。河童伝説は幾つもあるようである。私も子供の頃には大人の人から夜な夜な面白い話、怖い話を聞かされて、おしっこにも行けなかった、そんなことをいろいろと思いだしたが、そんな民話が豊富な遠野を離れて、宿泊予定の厳美渓に向かって車を走らせた。

 

 

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