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2011年10月01日の記事は以下のとおりです。

[完全復元] 「普天間基地移転問題」があぶりだしたものはなにか?

  • 2011/10/01 21:26

(この記事のオリジナルは2010年5月10日に書かれたものである。なお、最後に追記あり)

 いま巷では鳩山内閣、とりわけ鳩山首相の「迷走ぶり」、「言葉の軽さ」、「理解力の不足」などが語られて大騒ぎになっている。週刊誌の見出しもそれ一色である。でも、問題はそんなところにあるのだろうか、と思うのは私だけではあるまい。
 たとえば、写真にあるのは5月8日の読売新聞朝刊の見出しであるが、鳩山首相との会談において徳之島の3町長が基地機能の一部移転に断固反対であると伝えている。すでにそれ以前にも、沖縄・名護市への移転にも同市長や知事が反対だと述べたのはよく知られている。このような沖縄や徳之島の反対は、「基地はいらない」という主張がバックボーンにあり、「これ以上基地は作らせない」ということとは基本的に違うことだと感じている。
 昨年の民主党への政権交代の結果、表面的には現在のような混乱状態になっているのであるが、それに対する自民党などによる批判は、「最低でも県外などと嘘をついた」、それに「沖縄県民に幻想を抱かせた」などである。しかし、現時点における沖縄や徳之島などの世論の動向を見れば、様々な懐柔策で名護市への移転を決めてはいたが、心底名護市への移転には反対であったことが浮き彫りにされたといえる。つまりは、かっての与党(自民党と公明党)は当事者を怒らせることなく、また幻想を抱かせることなく巧みに交渉してきた結果、名護市への移転議論を成功させたということであろうか。そして、民主党政権はその点で大いに手抜かりがあったということであろう。ただそれだけのことで、沖縄周辺住民のあの地上戦への憎悪の気持ちを決して癒していたわけではなかったのである。それは不幸なことだと言わざるを得ない。
 では、一体なにが問題なのであろうか? あるいは、何があぶりだされてきたのであろうか? 基本的には、米軍基地が必要だと考えるかどうかだと思う。私はかってホームページで、「所詮軍隊は、自国民を守る前に必ず自国民に銃口を向けるものである」(http://www.unique-runner.com/koushokutuiho.htm )ということを書いた。沖縄の地上戦での日本軍による自害の強要、サイパンのバンザイ岬からの身投げ、などなど様々な非戦闘員の悲惨な状況を考えるにつけ、日本国民の心の底には軍隊や基地に対する言葉にできない激しい怒りの気持ちが隠されているのではないかと思う。日本憲法成立の裏側にはこの気持ちが隠れている。さらに、この気持ちは沖縄や徳之島などの民衆の心に特に顕著なように感じられる。彼らにはもはや軍や基地はいらないのである。ましてや、何の正義も見いだせないイラクとの戦争やアメリカのリベンジとしてのアフガニスタンでの戦争など、異国の戦争に加担する海兵隊は居て欲しくないのであろう。
 だから、そのような問題への謙虚な反省を新しい政権が語って初めて、国民は軍や基地の存在を認めるのであろう。いま、自衛隊を認めると言う人のかなりの部分は、災害時の救援隊としての機能を見てのことのように思う。田母神論文のようなものが大手を振って出歩き、そんな人物が自衛隊の中枢近くにいたことを知るにつけ、いつまでも軍に対する疑惑の念は国民のこころから拭い去れないのである。私などもあんな人間がいれば我々も殺されるとさえ思う。
 ひょっとすると鳩山首相は、そんな問題を俎上に載せる可能性があるかと、一縷の望みをかけていた。でも、なんとも平凡な「抑止力」の議論だけでことを決着させようとし始めている。これではこれまでの政権と同じ論理を振りかざして基地問題を解決しようとしていることを意味する。これではどこにお願いしても基地は作れない。作れるとすれば、大金で平手打ちするしかないのである。それはそれでよいこと、当たり前のことなのかもしれない。でも、いまの沖縄には最悪である。

追記:日本における軍事基地の作られ方と原子力発電所の作られ方は、基本的には同じやり方なのだと思う。いずれもお金で解決するやり方である。(2011年10月1日)

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