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2011年10月07日の記事は以下のとおりです。

[完全復元] 余部(あまるべ)鉄橋の2世代を見る

  • 2011/10/07 22:33

(この記事のオリジナルは2010年9月29日に書かれたものである)

 かって突風による悲惨な転落事故が起き、そんな事故を防止するべく新しい鉄橋が建設された現場を見たいと、好奇心旺盛は友人たちが現場(余部鉄梁、愛称余部鉄橋)を訪れ、その写真を提供された。その時の話を少しだけ聞きかじった私だがその日記をここに書いておきたい。
 余部鉄橋は山陰線の餘部駅(姫新線の余部「よべ」駅と区別するために違う字をあてたと言われる)-鎧駅間に架けらた高さ41.5メートルの鋼材の橋で、明治42年から2年あまりの歳月をかけ、アメリカから輸入された資材、33万円の巨費、延べ25万人を動員して明治45年(1912年)に完成した。朱色の橋梁や桁の美しさや当初東洋一(現在でも日本一)と言われた高さなどから人気を集めたが、昭和61年(1986年)12月28日午後、回送列車の客車8両が最大風速33メートルの突風にあおられて橋梁中央部分から転落した。その橋梁の下にあった水産物加工会社で働いていた主婦5名と車掌の1名が亡くなる惨事となった。
 その悲惨な事故と風による運休が多いことなどから新しい橋梁への建て替えが議論され、平成19年から3年の工事の後今年2010年8月12日に新しい橋梁への切り換えが行われた。明治45年から98年間の使用に耐えた鋼材に代わって鉄筋コンクリート製の橋梁となった。1代目の橋梁は、この場所が海岸のそばにあり、塩分を含んだ強風が吹きつけ、また雪も多いなどから建設当時から綿密な点検が行われ、必要に応じて塗装のやり直しや部材の交換などが絶え間なく行われてきたようである。これが転落事故以外の事故を封じ込めてきたのであろう。今年8月12日の新しい橋の運行記念として始発列車には地元の皆さん120名がお乗りになったようである。
 さて、1枚目の写真は、その橋梁の下の売店で売られている絵葉書の写真を拝借したものである(写真はすべてクリックで拡大可能)。桜の咲くころの写真のようで、朱色の橋脚が美しい。2枚目からは今回友人が撮影してきてくれた写真で、まずは駅名の看板である。余部ではなく餘部になっているのは上に述べた通りである。3枚目は下から新しい橋を眺めたもので、丁度運よく特急列車が通過中である。写真から分かるように、今回の橋梁には透明なアクリル板を使った防風構造が付けられており、これまで以上に安全な橋になったとのことである。
 4枚目の写真は残された橋脚などが写っているもので、多分この3本ほどの橋脚は記念として何らかの形で残されるようである。その上の部分では、5枚目の写真のように今もなお古い橋の部分の撤去工事が行われている。
 この新しい橋が安全で、いつまでも美しく、地元をはじめみんなに愛され続けることを祈りたい。

[完全復元] 古い映画の中にも、現代の世界が見える

  • 2011/10/07 16:48

(この記事のオリジナルは2010年8月27日に書かれたものである)

 私が日常的に時間を使っているのは、学生に解剖生理学や生物学を教えることとそのための勉強、秋から冬にかけてマラソンレースを走るためのトレーニング、それに好きな映画を衛星放送などからDVDに記録してそれをリストに整理し、空いた時間があれば観たい映画のDVDを取り出して、パソコンにつないだ少し大きめのディスプレイで鑑賞することである。
 硫黄島は太平洋戦争での最大の激戦地のひとつで、日本が後手に回り始めてからではアメリカに最も善戦した戦いの地であったと言われている。その戦いについては、最近ではクリント・イーストウッド監督がアメリカ側からと日本側からの2つの視点で「父親たちの硫黄島」と「硫黄島からの手紙」をいう印象的な映画を創ったことが記憶に新しい。しかし、日本の無条件降伏後4年後の1949年に「硫黄島の砂」(原題"Sands of Iwo Jima")が、監督アラン・ドワン、主演ジョン・ウェインで作られている。この映画は、厳しい訓練を経て戦う海兵隊員と彼らによって硫黄島のすりばち山に星条旗を立てるまでを描いていて、日本もフェアに扱われている印象である。この星条旗を誰がどのように立てたのかは、クリント・イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」に詳しいのでここでは割愛する。
 私がこの映画を観て驚いたのは、映画の最後に近いシーンで歌われた歌詞のことである。なぜか日常的によく聞く曲でありながらその歌詞は全く知らなかったが、その歌詞が翻訳されて字幕になったのを見たときにはなぜか不思議な感じがした(写真はいずれも画面から取得させていただいた。お許し願いたい。)。
 2枚目の写真にある歌詞から順にそれを書いてゆくと、
 
“モンテスマの王宮からトリポリの海岸まで
 我らは祖国のために戦う 空で陸で海で
 正義と自由と名誉を守るために
 我らは誇り高き合衆国海兵隊”

 これが1番の歌詞で、その冒頭に「モンテスマの王宮からトリポリの海岸まで」とあり、モンテスマは分からないトリポリはリビアの都市で、なぜここに出てくるのかが全く不可解であったので調べた。Wikipediaによれば以下がまず歌詞の日本語訳である。少し違うが大差なく、上の映画の画面からの歌詞は少し短縮されているようである。

1番
 モンテズマの間から
 トリポリの海岸まで
 我らは祖国のために
 空、陸そして海で戦う
 正義と自由を守り最初にたあたかうものとして
 そして我らの高潔な名誉を守るため
 我らが誇りとするその名は
 合衆国海兵隊

2番
 我らの旗は夜明けから夕日まで
 すべての風に翻る
 我らは銃を手に取って
 あらゆる気候と場所で戦った。
 遠くの雪の降る北国で
 そして日の照る南国の地で
 常に働く姿を見るだろう。
 それは合衆国海兵隊

3番
 我らが誇りをもって務める海兵隊と
 君の健康を祈願して乾杯!
 我らが生涯にわたって戦った多くの戦いにおいて
 我らは勇気を決して失わなかった。
 もし陸軍と海軍が
 天国を見上げたならば知るだろう。
 天国への道を護るのは
 合衆国海兵隊

 これを見れば、海兵隊が海外に出て戦う先兵としての誇りに満ちているのがよく分かる。それにしても「モンテスマの王宮」とか「トリポリの海岸」がなぜ出てくるのだろうか。アメリカ海兵隊は独立戦争当時の1775年に大陸海兵隊(大陸とはイギリス軍に対するアメリカ大陸の意味か)として組織されたのが最初であるが、大陸側の勝利が明らかになった後一時解散したが、1798年にアメリカ海兵隊として再建されたのが現在の海兵隊の元である。最初の海外派遣は早くも再建数年後の1804年、地中海の自由航行権に関わるもので、オスマン帝国(バーバリ諸国)との争いに僅か7名の海兵隊が派遣され、傭兵とともにトリポリの要塞を占領してその戦いに勝利したのが最初とされる。 また、長いスペインからの独立戦争を戦って独立したメキシコとは、その独立戦争当時から西海岸や南を目指すアメリカとの争いが絶えず、それが米墨戦争(アメリカ―メキシコ戦争)として1846年に勃発した。そして1847年にメキシコシティのチャプルテペック城が陥落して終了に至った。これによってメキシコは領土の1/3を失い、アメリカはカリフォルニアやルイジアナなど多くの州を獲得することになった。その際、そのモンテスマ王宮を陸軍より早く最初に占領したのが海兵隊だったのである。その後第一世界大戦、中南米諸国との争い、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、グレナダ侵攻、イラク戦争、アフガニスタン戦争など必ず戦場を海外に求めたアメリカの先兵としての強烈な役割を先の海兵隊讃歌の歌詞が表しているのである。
 このように見てくるとアメリカの海外との摩擦の正面に立っているのはいつも海兵隊である。その摩擦はいまも現実のものとして燻ぶり続けている。日本の沖縄にはこの強力な海兵隊が駐留している。海兵隊は外国との戦争の正面に出て行く部隊である。それがなぜ沖縄に必要であるかはきちんとした議論が必要だと思われるが、抑止力として必要であると説明するのは自民党政権も民主党政権も変わらないのはなぜか。私はもちろんであるが、沖縄県民はもっと深刻にその問題の解決を望んでいると確信する。

[完全復元] 猛暑の高槻から、緑鮮やかな洛北・大原へ(3)寂光院

  • 2011/10/07 13:16

(この記事のオリジナルは2010年8月24日に書かれたものである)

 暑くてカンカン照りの中、三千院からの参道を降りてくると駐車場があり、そばの367号線を渡ったところに京都バスの発着場がある。その発着場のちょっと分かりにくい裏側を降りてゆくと寂光院への細い道があり、小さな橋を渡ってからは車がやっと通れるくらいの道を約1キロ歩いてゆっくと寂光院への、うっかり見逃してしまいそうな参道の入り口がある。そこには1枚目の写真のような案内板が建てられているが、やはりWikipediaに頼ると次のように言う。
 「寂光院の草創について、明確なことは分かっていない。寺伝では推古天皇2年(594年)、聖徳太子が父用明天皇の菩提のため開創したとされ、太子の乳母玉照姫(恵善尼)が初代住職であるという。しかし、江戸時代の地誌には空海開基説(『都名物図会』)、11世紀末に大原に隠棲し大原声明を完成させた融通念仏の祖良忍が開いたとの説(『京羽二重』)もある。現在、寂光院はそうした草創伝説よりも、『平家物語』に登場する建礼門院隠棲のゆかりの地として知られている。
 建礼門院徳子(1155‐1213)は平清盛の娘、高倉天皇の中宮で、安徳天皇の生母である。寿永4年(1185年)、壇ノ浦で平家一族が滅亡した後も生き残り、侍女の阿波内侍とともに尼となって寂光院で余生を送った。寂光院や三千院のある大原の里は、念仏行者の修行の地であり、貴人の隠棲の地であった。平家一門と高倉・安徳両帝の冥福をひたすら祈っていた建礼門院を訪ねて後白河法皇が寂光院を訪れるのは文治2年(1186年)のことで、この故事は『平家物語』の「大原御幸」の段において語られ、物語のテーマである「諸行無常」を象徴するエピソードとして人々に愛読された。」
 参道になっている石段を登ってゆくとすぐに小さな山門となり、そこから小ぢんまりした、女性的と思われる寂光院が見えてくる(2枚目の写真)。そして中に入ってみると右側に今は盛りと白いサルスベリが咲き誇っていた。それは本堂と見事な調和である(3枚目の写真)。このお寺は非常に簡素なお寺であるが、それは建礼門院が平家一族滅亡後も侍女とともに源氏から隠れて生き延びた場であったためであろうか。建礼門院をはじめ平家一族追放の命を源氏に出した後白河法皇は後にこの地に彼女を訪ね、その質素な生活に涙したという。そんな由緒あるこのお寺も2000年5月9日の放火によって全焼してしまったが、2005年6月に再建された。
 それも諸行無常を表すひとつであろうか、宝物殿には「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、聖者必衰の理をあらはす」で始まる平家物語の写本が置かれていた。
 お参りを終わって外に出ると、すぐ近くに建礼門院徳子のお墓があることを示す札が立っており、いまそれはなぜか宮内庁の管理下にあることが示されていた。

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