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2011年10月の記事は以下のとおりです。

[簡易復元] 2010春京都・京北地方を行く(2)北山杉と高雄

  • 2011/10/25 09:49

 常照皇寺への往路でも感心しながら見たものであるが、帰り道には北山杉をゆっくりと見ることが出来た。何故あのようなきれいな杉がこの地方に育つのかについては、「京都北山 ~北山杉のふるさと中川~」のウェブサイト(http://www12.ocn.ne.jp/~ydaisuke/ )に次のような非常に分かりやすい解説がなされているので、それを引用させていただきたい。
 「京都市街の西北約20kmに位置する北山地方、特に現在の京都市北区中川を中心とする地域は、丸太林業地帯として栄えてきました。中川地域は隣接する小野庄(現在の京都市北区小野郷)や梅ヶ畑庄(現在の京都市右京区高雄)とともに京都御所に産物を献上する『供御人』としての地位を授かって古来より磨丸太類の生産、販売を行っていました。室町時代、中川地域の磨丸太は千利休により完成された『茶の湯』文化を支える茶室や数奇屋の建築用材として頻繁に用いられるようになりました。その代表が桂離宮や修学院離宮です。江戸時代から明治時代にかけて、中川地域の磨丸太は京都市内はもちろん関西一円に販売されていたようです。
 第二次世界大戦後、吉田五十八や篠原一男らをはじめとする著名な建築家たちによる近代数奇屋建築が華々しく登場するなか、中川地域の磨丸太の需要は絶頂に達します。近代数奇屋建築ブームに乗って、京都府の京北町、八木町、日吉町にまで磨丸太育林が波及したのもこの頃からです。このような背景の中で中川を中心に高雄、鷹ヶ峰、小野郷を含めた地域からの丸太は『地山丸太』、京北町等からの丸太は『丹波物』と呼ばれるようになりました。(…中略・・・)
 磨丸太は杉の木の皮を剥いだ丸太のまんま、人目につくところで用いられます。だから、フシがあったり、キズがあっては磨丸太になりません。フシやキズのない磨丸太を作るため北山地方では緻密な育林技術を確立してきました。
 その技術の中でも特に重要なのが枝打ち。植林から伐採までの何度となく枝打ちが繰り返されます。滑らかな表面をした床柱をつくるため鋭利なカマやナタなどをもちいる枝打ちは一般の林業とは異なり、北山地方独特です。杉が太り過ぎないように、枝を落とし光合成を抑える一方、細くなりすぎないよう枝打ちには細心の注意が払われます。そして真直ぐな磨丸太を作るため、北山杉はすべて挿木から育成されます。北山地域は地形が険しく、さらに雪深いことが知られています。北山杉を育てるマエストロ達は、このような自然条件下で細い杉の苗をまっすぐに育ててゆく妙技を800年以上続く歴史の中で確立していたったのです。」
 このような真っ直ぐな丸太の生産のために、また生育を早めるために苗は挿し木によって育て、成長を制御するために一般的なスギ林に比べて5割増しの密度で急峻な山に植え、定期的な下刈り、枝打ち、を行って見事な丸太を生産し続けてきたのである。最初の写真3枚は、若く可愛らしい杉から見事な丸太に育っていく北山杉の写真である。
 しかし私にはもうひとつの丸太生産のことはよくわかっていなかった。それは「台杉」というやり方である。上にあげたウェブサイトによれば、
 「台杉、それは中川地方の急峻な山で効率よく磨丸太を生産する方法として編み出された山人の創意工夫の産物です。室町中期、『取り木』と呼ばれる台をつくり、そこから枝を垂直に伸ばして『立ち木』に仕立て、恒常的に磨丸太を生産する方法が初めて考えられました。苗の植付けから五年目、将来「取り木」となる裾の枝を残しながら、『立ち木』の穂先部に樹冠を残すのみで大部分の枝を打ち落とします。 
 その後、隔年ごとに『立ち木』の枝打ちをして床柱などに適した太さまで育ったところで伐採、最初の丸太を収穫します。一本目の伐採後は、『取り木』の中から直立してくる枝で素性の良いものを数本、次代の『立ち木』に仕立て適寸になったものから適宜伐採してゆき、この繰り返しで磨丸太を生産していきます。台杉方式で磨丸太を生産してきた中川では樹齢数百年にもなる台杉が今でもみかけられます。」
 まったく面白いやり方で、創意工夫の産物に違いない。私もこの地区で台杉を見たが、そんな深い意味があったのだとは意識できず、写真も撮らなかった。情けない限りであるが、良い勉強になったと思っている。4枚目の写真は、中川地区の川べりに立つ製材所群を映したものである。
 そこを離れて高雄で一服して帰ったのであるが、最後の写真のように春の高雄は山つつじで満開であった。

[簡易復元] 2010春京都・京北地方を行く(1)常照皇寺

  • 2011/10/24 13:40

(この記事のオリジナルは2010年4月に書かれたものであるが、ファイルが失われたため書き直す)

 「うろちょろ京都散策」のウェブサイトは次のように書いている。「天神川沿いの国道162号線(周山街道)を車で北へ。高雄を通り過ぎ清滝川沿いの緑の山々を見ながら、3つ目のトンネルを通り抜けると周山となる。そこから右手に折れ「鞍馬・大原方面」へ向かう山国街道(477号線)を走ること数分で「山国護国神社」がある。さらに道なりに走り、二つ目の橋を渡ったところで道は大きく右にカーブするが、直進する細い道の奥に常照皇寺がある。カーブする所にバス停「御陵前」がある。」 
 そしてその草創については、「常照皇寺は、南北朝時代の北・貞治1年/南・正平17年(1362)に光厳(こうごん)法皇がこの地に草案を結ばれたのが2年後に没した。その後、菩提を弔うために、開山を天皇とし禅刹に改め常照万寿皇禅寺とされたのが当寺。御陵が寺に隣接してある。戦国期(安土桃山時代)の天正7年(1579)、明智光秀が周山城(現在は石垣が残るのみ)を築くための木材を集めで周辺の社寺を取り壊したことで、当寺は衰退。その後も、太閤検地で寺領の没収や戦火で諸堂伽藍を焼失し荒廃。江戸時代に入り、後水尾法皇の尽力、徳川秀忠の外護があり、末寺300寺に回復。だが、昭和の敗戦後に多くの寺田や寺資産を失くしたまま、今日に至っている。」と書かれている。どこの寺院仏閣もそうであるが、特に京の周辺においてはかっては戦乱の世の中にあったのである。
 そんな常照皇寺は上の案内通り簡単に見つかった。そして長い石段を上るとそこには質素なお寺があった。そこの方丈には鴨居の上に仏壇があり、阿弥陀如来立像が祀られているという独特の形があって、少なからず驚かされた(2枚目の写真)。その方丈から開山堂へと移動するとその前庭には天然記念物である九重桜と呼ばれる枝垂桜が見事に花開いていた(3枚目の写真)。またその小さな庭園への入り口近くには菊の御紋のついた瓦が無造作に飾られていて、ここが天皇家ゆかりのお寺であることを印象付けていた(4枚目の写真)。
 常照皇寺を辞して石段を下って門前に出ると、そこにはピンク色の見事な枝垂桜が1本だけあり、まさに満開であった(5枚目の写真)。

[簡易復元] 2010年の暮れ、浅草寺と葛飾柴又へ(2)昭和の街、葛飾柴又

  • 2011/10/22 17:35

 浅草寺を訪れた翌日、寅さんの街、葛飾柴又を訪れることにした。寅さんの「男はつらいよ」をほとんど見たこともなく、寅さんの人となりに詳しくない私としては、情けないがいつものようにWikipediaにお願いするしか手はない。
 「古くから題経寺(柴又帝釈天)の門前町として知られていたが、映画『男はつらいよ』の舞台となったことでさらに広く認知されるようになった。江戸川の西岸に位置し、対岸の千葉県松戸市・矢切地区とを結ぶ渡し船「矢切の渡し」の渡し場がある。概ね住宅地からなるが、新柴又駅周辺には農地が存在する。北には金町が隣接し、北東に金町浄水場がある。東は江戸川の対岸に千葉県の下矢切が、南に鎌倉が、西に高砂と新宿がある。帝釈天界隈は、環境省の「日本の音風景100選」に選定されている。」とのことである。
 また寅さんについては「『男はつらいよ』(おとこはつらいよ)は、渥美清主演、山田洋次原作・監督(一部作品除く)のテレビドラマおよび映画である。テキ屋稼業を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎が、何かの拍子に故郷の葛飾柴又に戻ってきては何かと大騒動を起こす人情喜劇シリーズ。毎回旅先で出会った「マドンナ」に惚れつつも、失恋するか身を引くかして成就しない寅次郎の恋愛模様を、日本各地の美しい風景を背景に描く。主人公の名前から、作品自体も「寅さん」と呼ばれることが多い。」と書かれている。
 そんないわれのある寅さんの葛飾柴又、1枚目の写真は京成電鉄・柴又駅の写真で、その駅前広場には2枚目の写真の通りあの登録商標のような寅さんの銅像が立っていた。そして、ごく短い帝釈天の参道に入るとすぐ左にまるで丁度戦後の昭和の時代のような雰囲気の小さな、“なんでもあり”の店があり、賑わっていた。そこにはいろいろな駄菓子、いろいろなおもちゃ、ビー玉などなど、見ているととても面白いものに溢れていた。私もなんだかんだと孫へのお土産を手に入れて帝釈天への参道を進んだ(3枚目の写真)。
 その途中には、寅さんの映画で有名になった団子屋あった(4枚目の写真)。その店は数回の撮影の後店名を「とらや」に変えたために、映画に出てくる店の名前は後に「くるまや」に変えたいきさつがあるようである。私たちも帰りにそこで草団子をいただいてきた。
 帝釈天にお参りをしてから近くにある「寅さん記念館」を訪れた。そこはまるで昭和の塊のようなところで、なんだか懐かしい気持ちで一杯であった。その中に作られた模型の街並みと「くるまや」店内の様子の写真を組み合わせたものを最後にご覧いただきたい。昭和を体感するにはもってこいの場所ではある。

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