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2011年10月の記事は以下のとおりです。

[完全復元] 古い映画の中にも、現代の世界が見える

  • 2011/10/07 16:48

(この記事のオリジナルは2010年8月27日に書かれたものである)

 私が日常的に時間を使っているのは、学生に解剖生理学や生物学を教えることとそのための勉強、秋から冬にかけてマラソンレースを走るためのトレーニング、それに好きな映画を衛星放送などからDVDに記録してそれをリストに整理し、空いた時間があれば観たい映画のDVDを取り出して、パソコンにつないだ少し大きめのディスプレイで鑑賞することである。
 硫黄島は太平洋戦争での最大の激戦地のひとつで、日本が後手に回り始めてからではアメリカに最も善戦した戦いの地であったと言われている。その戦いについては、最近ではクリント・イーストウッド監督がアメリカ側からと日本側からの2つの視点で「父親たちの硫黄島」と「硫黄島からの手紙」をいう印象的な映画を創ったことが記憶に新しい。しかし、日本の無条件降伏後4年後の1949年に「硫黄島の砂」(原題"Sands of Iwo Jima")が、監督アラン・ドワン、主演ジョン・ウェインで作られている。この映画は、厳しい訓練を経て戦う海兵隊員と彼らによって硫黄島のすりばち山に星条旗を立てるまでを描いていて、日本もフェアに扱われている印象である。この星条旗を誰がどのように立てたのかは、クリント・イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」に詳しいのでここでは割愛する。
 私がこの映画を観て驚いたのは、映画の最後に近いシーンで歌われた歌詞のことである。なぜか日常的によく聞く曲でありながらその歌詞は全く知らなかったが、その歌詞が翻訳されて字幕になったのを見たときにはなぜか不思議な感じがした(写真はいずれも画面から取得させていただいた。お許し願いたい。)。
 2枚目の写真にある歌詞から順にそれを書いてゆくと、
 
“モンテスマの王宮からトリポリの海岸まで
 我らは祖国のために戦う 空で陸で海で
 正義と自由と名誉を守るために
 我らは誇り高き合衆国海兵隊”

 これが1番の歌詞で、その冒頭に「モンテスマの王宮からトリポリの海岸まで」とあり、モンテスマは分からないトリポリはリビアの都市で、なぜここに出てくるのかが全く不可解であったので調べた。Wikipediaによれば以下がまず歌詞の日本語訳である。少し違うが大差なく、上の映画の画面からの歌詞は少し短縮されているようである。

1番
 モンテズマの間から
 トリポリの海岸まで
 我らは祖国のために
 空、陸そして海で戦う
 正義と自由を守り最初にたあたかうものとして
 そして我らの高潔な名誉を守るため
 我らが誇りとするその名は
 合衆国海兵隊

2番
 我らの旗は夜明けから夕日まで
 すべての風に翻る
 我らは銃を手に取って
 あらゆる気候と場所で戦った。
 遠くの雪の降る北国で
 そして日の照る南国の地で
 常に働く姿を見るだろう。
 それは合衆国海兵隊

3番
 我らが誇りをもって務める海兵隊と
 君の健康を祈願して乾杯!
 我らが生涯にわたって戦った多くの戦いにおいて
 我らは勇気を決して失わなかった。
 もし陸軍と海軍が
 天国を見上げたならば知るだろう。
 天国への道を護るのは
 合衆国海兵隊

 これを見れば、海兵隊が海外に出て戦う先兵としての誇りに満ちているのがよく分かる。それにしても「モンテスマの王宮」とか「トリポリの海岸」がなぜ出てくるのだろうか。アメリカ海兵隊は独立戦争当時の1775年に大陸海兵隊(大陸とはイギリス軍に対するアメリカ大陸の意味か)として組織されたのが最初であるが、大陸側の勝利が明らかになった後一時解散したが、1798年にアメリカ海兵隊として再建されたのが現在の海兵隊の元である。最初の海外派遣は早くも再建数年後の1804年、地中海の自由航行権に関わるもので、オスマン帝国(バーバリ諸国)との争いに僅か7名の海兵隊が派遣され、傭兵とともにトリポリの要塞を占領してその戦いに勝利したのが最初とされる。 また、長いスペインからの独立戦争を戦って独立したメキシコとは、その独立戦争当時から西海岸や南を目指すアメリカとの争いが絶えず、それが米墨戦争(アメリカ―メキシコ戦争)として1846年に勃発した。そして1847年にメキシコシティのチャプルテペック城が陥落して終了に至った。これによってメキシコは領土の1/3を失い、アメリカはカリフォルニアやルイジアナなど多くの州を獲得することになった。その際、そのモンテスマ王宮を陸軍より早く最初に占領したのが海兵隊だったのである。その後第一世界大戦、中南米諸国との争い、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、グレナダ侵攻、イラク戦争、アフガニスタン戦争など必ず戦場を海外に求めたアメリカの先兵としての強烈な役割を先の海兵隊讃歌の歌詞が表しているのである。
 このように見てくるとアメリカの海外との摩擦の正面に立っているのはいつも海兵隊である。その摩擦はいまも現実のものとして燻ぶり続けている。日本の沖縄にはこの強力な海兵隊が駐留している。海兵隊は外国との戦争の正面に出て行く部隊である。それがなぜ沖縄に必要であるかはきちんとした議論が必要だと思われるが、抑止力として必要であると説明するのは自民党政権も民主党政権も変わらないのはなぜか。私はもちろんであるが、沖縄県民はもっと深刻にその問題の解決を望んでいると確信する。

[完全復元] 猛暑の高槻から、緑鮮やかな洛北・大原へ(3)寂光院

  • 2011/10/07 13:16

(この記事のオリジナルは2010年8月24日に書かれたものである)

 暑くてカンカン照りの中、三千院からの参道を降りてくると駐車場があり、そばの367号線を渡ったところに京都バスの発着場がある。その発着場のちょっと分かりにくい裏側を降りてゆくと寂光院への細い道があり、小さな橋を渡ってからは車がやっと通れるくらいの道を約1キロ歩いてゆっくと寂光院への、うっかり見逃してしまいそうな参道の入り口がある。そこには1枚目の写真のような案内板が建てられているが、やはりWikipediaに頼ると次のように言う。
 「寂光院の草創について、明確なことは分かっていない。寺伝では推古天皇2年(594年)、聖徳太子が父用明天皇の菩提のため開創したとされ、太子の乳母玉照姫(恵善尼)が初代住職であるという。しかし、江戸時代の地誌には空海開基説(『都名物図会』)、11世紀末に大原に隠棲し大原声明を完成させた融通念仏の祖良忍が開いたとの説(『京羽二重』)もある。現在、寂光院はそうした草創伝説よりも、『平家物語』に登場する建礼門院隠棲のゆかりの地として知られている。
 建礼門院徳子(1155‐1213)は平清盛の娘、高倉天皇の中宮で、安徳天皇の生母である。寿永4年(1185年)、壇ノ浦で平家一族が滅亡した後も生き残り、侍女の阿波内侍とともに尼となって寂光院で余生を送った。寂光院や三千院のある大原の里は、念仏行者の修行の地であり、貴人の隠棲の地であった。平家一門と高倉・安徳両帝の冥福をひたすら祈っていた建礼門院を訪ねて後白河法皇が寂光院を訪れるのは文治2年(1186年)のことで、この故事は『平家物語』の「大原御幸」の段において語られ、物語のテーマである「諸行無常」を象徴するエピソードとして人々に愛読された。」
 参道になっている石段を登ってゆくとすぐに小さな山門となり、そこから小ぢんまりした、女性的と思われる寂光院が見えてくる(2枚目の写真)。そして中に入ってみると右側に今は盛りと白いサルスベリが咲き誇っていた。それは本堂と見事な調和である(3枚目の写真)。このお寺は非常に簡素なお寺であるが、それは建礼門院が平家一族滅亡後も侍女とともに源氏から隠れて生き延びた場であったためであろうか。建礼門院をはじめ平家一族追放の命を源氏に出した後白河法皇は後にこの地に彼女を訪ね、その質素な生活に涙したという。そんな由緒あるこのお寺も2000年5月9日の放火によって全焼してしまったが、2005年6月に再建された。
 それも諸行無常を表すひとつであろうか、宝物殿には「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、聖者必衰の理をあらはす」で始まる平家物語の写本が置かれていた。
 お参りを終わって外に出ると、すぐ近くに建礼門院徳子のお墓があることを示す札が立っており、いまそれはなぜか宮内庁の管理下にあることが示されていた。

[完全復元] 猛暑の高槻から、緑鮮やかな洛北・大原へ(2)三千院門跡

  • 2011/10/07 09:04

(この記事のオリジナルは2010年8月24日に書かれたものである)

 緑美しい阿弥陀寺から鯖街道を戻り三千院を訪れた。街道沿いにある民間の駐車場からおよそ600メートルの細い坂道を、その脇に店を開く多くの土産物店や茶室などを物色しながら登っていくとそこには大きな山門が開いていた(1枚目の写真)。そこを入ると、思いがけず広い傾斜地に多くの建物などが立っていた。当たり前のようにWikipediaに尋ねると次のように言う。
 「三千院は、また梶井門跡と呼ばれ、古くは東坂本に里坊がありましたが、中世以降、大原魚山の来迎院、勝林院、往生極楽院などの寺でらを管理するために大原に政所を設けたのが前身です。明治になって三千院と公称するようになりました。
 三千院は、比叡山延暦寺を開かれた伝教大使が、東塔南谷に草庵を開いたのに始まり、その後寺地は時代の流れの中で、京都市中を幾たびか移転しました。その都度呼び名も円融房、梨本房、円徳院、梨本門跡、梶井宮と変え、特に応仁の乱後梶井宮の政所であった現在の地を一時仮御殿とされたのでしたが、明治維新までは御所の東、河原町御車小路梶井町(現・府立病院)に御殿を構えておりました。元永元年(1118年)堀川天皇第二皇子・彩雲法親王が梶井宮に入室され梨本の正統を継がれて以来、皇族出身者が住持する宮門跡となりました。妙法院、清蓮院、曼殊院、毘沙門堂とともに天台宗五箇室室門跡のひとつとして歴代の天台座主を輩出してきました。
 大原は古くから貴人や念仏修行者が都の喧騒を離れて隠棲する場として知られていた。文徳天皇の第一皇子である是孝親王(これたかしんのう、844‐897年)が大原に隠棲されたことはよく知られ、『伊勢物語』にも言及されている。藤原氏の権力が絶大であった当時、本来なら皇位を継ぐべき第一皇子である是孝親王は、権力者藤原良房の娘・藤原明子(あきらけいこ)が産んだ清和天皇に位を譲り、自らは出家して隠棲したのであった。大原はまた、融通念仏や天台声明(しょうみょう、仏教声楽)が盛んに行われた場所として知られ、天台声明を大成した聖応大師良忍(1073‐1132年)も大原に住んだ。」とのことである。
 そんな修行の伝統のある大原は古くから朝廷の馬の供給場所でもあり、また野菜や炭の生産地でもあったようで、厳しい山中にありながら地の利にかなった発展をしてきた地域のようである。その三千院に入ってみると、ここでも阿弥陀寺同様に美しい緑にあふれていた。最初に入った客殿からは見事な庭園が見られ、落ち着いた雰囲気であった(2枚目の写真)。
 かって梶井門跡がこの大原の地に移って極楽院を取り込んで本堂とした往生極楽院には、小さいお堂ながらかなり大きな阿弥陀三尊像が納められていた。いずれも穏やかな姿で両側の菩薩像はやや前屈みに跪いた「大和座り」をしている珍しい姿であった。なお、そのお堂の天井には大きな像を入れるためか船底型になっている珍しい構造であった。その極楽院の前庭は美しくよく手入れされた苔に覆われており、そこに美しい顔や腹這いになったりの面白い恰好をした何体かの童地蔵がこちらを眺めていた(3,4枚目の写真)。
 その後境内のあちらこちらのお堂をお参りしながら歩き、出口に差し掛かるとそこの建物には大きな菊の御紋が付けられていた。やはり、三千院門跡なのである。出口を出たところにある茶店でそばの昼食をとり、参道を下りながら様々な特産品を売るお店などを見ながら歩いていると、最近テレビなどで話題の“アイスきゅうり”を売る店があった(5枚目の写真)。この暑い季節、よく冷えていて程よい漬かり具合で、ちょっと塩味の効いたアイスきゅうりは、値段もそこそこで実に美味しかった。大原の人達はなかなか商売上手で話題作りに事欠かないようである。
 それにしても、洛北のち・大原は秋の紅葉を待たずとも十分に自然の美しい地域であることを認識することになった。

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