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2011年10月の記事は以下のとおりです。

[簡易復元] 2010初秋 “魅惑の飯田線秘境駅号”で飯田線を行く

  • 2011/10/30 14:32

(この記事のオリジナルは2010年9月19日に書かれたが、ファイルが失われたため新たに書き直す)

 名古屋に長い間暮らしながら飯田線にはほとんど縁のない生活をしてきた私には、“魅惑の秘境駅号”での秘境駅探索の旅はちょっと興味を引かれるものだった。飯田線とは天竜川流域であるからきっと狭い空間を走るのだろうとは思っていたが、ちょっと想像できない旅だったのである。秘境駅とは容易に想像されるが、しかしその言葉が通じるファンが沢山いるのには驚いた。Wikipediaをみると次のような記述がある。
 「秘境駅は一般に、『鉄道路線と集落までの間に距離がある』『登山などの目的の人が利用するのみ』『昔は集落があったが消滅した』『駅に一切車道が通じていない』などの理由によって、人家のほとんどない地帯に存在する駅のことを指す。鉄道ファンの牛山隆信が自身のサイトで紹介したものが2001年に小学館文庫から出版されるにおよび、秘境駅という単語と、鉄道旅行の一ジャンルとしての秘境駅訪問が一般に知られるようになった。2004年には、それを元にした番組が旅チャンネルで制作されている。
 『秘境駅』という言葉が使われ始めた時期は不明確であるが、牛山の著書が出版される以前の1990年代には既に存在しており、一例として所澤秀樹の著書『列島周遊 もっとへんな駅!?』(1998年 山海堂刊)の中で田本駅や小和田駅に対して『秘境駅』との表現が使用されている。秘境駅は定義上、日常的な利用者がほとんどおらず、駅やその路線が廃止されることが多いため、減少傾向にある。ただし、2000年代後半以降は秘境駅を訪問するファンや一般人も増えており、小和田駅など一部秘境駅では混雑することがある。鉄道各社も秘境駅に関する臨時列車を運行している。」
 1枚目の写真はその「秘境駅号」で、団体列車であったがほとんど満員であった。大盛況である。2枚目の写真は「東栄駅」で、重要無形文化財に指定されている「花祭り」で使われる鬼面をモチーフにしたユニークな駅舎である。駅前には大きな鬼が立っていた。3枚目の写真は「小和田駅」の駅舎内で、丸い円盤で「花嫁号」と書かれている。この駅名は「こわだ」と読まれるが、雅子さまの実家の名前「小和田(おわだ)」にあやかって一大ブームになったようである。この駅は、静岡県、長野県、愛知県の県境に位置している珍しい駅である。
 4枚目の写真は、秘境駅にふさわしい駅で、2つのトンネルに挟まれ、ホームの向こう側は天竜川という恐ろしい場所にある。ホームの壁は雪崩防止になっているようで、どこにも行きようもない秘境駅で、秘境駅ランキング第4位と言われている。この写真は、トンネルの上に作られた細い道から撮ったものである。
 最後の5枚目の写真は終点の「天竜峡駅」を降り、少し歩いたところにある橋からの眺めで、天竜下りの船が出る船着き場が映っている。今年2011年8月18日、天竜川下りで事故が起こり5名が亡くなった。はたしてこの川での事故だったのであろうか。信じられない思いである。

[簡易復元] 2011 高槻シティ国際ハーフマラソンに『てっぱん』の人気者が登場!

  • 2011/10/29 17:46

(この記事のオリジナルは2011年1月に書かれたのであるが、ファイルが失われたため、新たに書き直す)

 1996年1月21日、初めてハーフマラソンを走ったのはこの高槻ハーフであった。それ以来毎年当たり前のようにエントリーして楽しませてもらってはきたが、2010年11月持病になりつつあった「発作性上室性頻拍」を、大阪大学病院でカテーテル手術に踏み切ったこともあり(http://www.unique-runner.com/catheter1.com )、今回のレースへのエントリーは取りやめることとした。しかし、ジムでのトレーニング仲間が5名参加したので、その応援がてらカメラマンとして参加した。
 一方、2009年秋から始まっていたNHK連続テレビ小説「てっぱん」が終盤を迎え、ヒロイン村上あかりの恋人?「駅伝君」の滝沢薫君がマラソンに挑戦することになった。そのマラソンの撮影舞台が、なんと高槻ハーフだったのには驚いた。そのため長田成哉君と瀧本美織さんが会場の高槻スポーツセンターの陸上競技場に現れ、ゲストランナーがあの高い声で叫ぶ千葉真子さんだったこともあってか、普段以上の大賑わいであった。この2人が千葉ちゃんとともに開会式に登場し、会場はヒートアップ。
 それを見届けて、私は撮影場所に選んだ10キロ地点に自転車で向かった。その場での撮影を終わって再び、スタート地点に戻り、ゴール前での仲間たちの苦しい表情を追った。写真を紹介しよう。1枚目の写真は壇上に上がった長田君ともちろん千葉ちゃんで、2枚目はゲスト席に座っている千葉ちゃん、長田君そして瀧本さんである。3枚目から5枚目は仲間たちの10キロ地点とゴール地点での写真で、タイムはそれぞれであるが全員無事完走してばんざ~い、めでたしめでたしで終了した。

[簡易復元] 2009年夏 東北3泊4日の旅(4)山形・山寺から宮城・松島へ

  • 2011/10/29 09:00

 中尊寺を離れて最後に一泊する松島に向かうべきかかなり迷ったが、結局思い切って東北道を下って山形自動車道に入り、「山寺」に向かうことになった。思い切ってというのは、確か150キロ以上はあったからである。でも、行ってよかったというのが本音で、芭蕉のあの有名な句にも出会えたからである。では、山寺とはどんなお寺なのか、いつものようにWikipediaに聞いてみた。その答えは、
 「立石寺(りっしゃくじ)は、山形県山形市にある天台宗の寺院。山号は宝珠山。本尊は薬師如来。寺号は詳しくは宝珠山阿所川院立石寺(ほうじゅさんあそかわいんりっしゃくじ)と称する。山寺(やまでら)の通称で知られ、古来より悪縁切り寺として信仰を集める。寺名は古くは「りうしゃくじ」と称した。蔵王国定公園に指定されている。立石寺の創建について、寺伝では貞観2年(860年)に清和天皇の勅命で円仁(慈覚大師)が開山したとされている。当寺の創建が平安時代初期(9世紀)にさかのぼることと、円仁との関係が深い寺院であることは確かであるが、創建の正確な時期や事情については諸説あり、草創の時期は貞観2年よりもさらにさかのぼるものと推定される。(…中略…)
 鎌倉時代には幕府の保護と統制を受け、関東御祈祷所となり寺は栄えたが後に兵火により焼失し、13世紀中頃には幕府の政策により禅宗に改宗となったが、延文元年(正平11年・1356年)斯波兼頼が羽州探題として山形に入部した後、兼頼により再建され天台宗に戻った。大永元年(1521年)、寺は天童頼長の兵火を受けて一山焼失した。天童頼長は斯波兼頼の孫の斯波(天童)頼直を祖とする天童家の末裔である。永正17年(1520年)、頼長は山形盆地に進出した伊達稙宗と戦うが、この際立石寺が伊達側に加勢したために、頼長の怒りを買い、翌年焼き討ちを受けたものである。なお、現存する立石寺中堂は後世の改造が多いものの室町時代中期の建物とされている。焼き討ちの際に、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消滅し、再度、分燈することとなるが、元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ち後の再建時には、立石寺側から逆に分燈されることとなった。(…中略…)
 元禄2年(1689年)に松尾芭蕉が旅の途中で訪れ、その時のことが『おくのほそ道』に書かれている。また、当地で名句「閑さや 巖にしみ入る 蝉の声」を詠んでおり、参道に句碑がある。」
 私はこの俳句に思い入れがある。いまでも覚えているが、中学生の時に国語の時間に先生にあてられ、この句の説明というか感想を求められたときに、この騒々しい蝉の声がかえってこの山の静寂さを示している、というようなことを答えた。その答えに今でも納得している。というのは、それほど私の田舎も蝉の声が周りにしみ込んでしまいそうな雰囲気であったからである(2枚目の組み写真)。でも、ひとつ疑問がある。あの句は、“しずかさや・・・”なのであろうか、あるいは“しずけさや・・・”なのであろうか、それについての興味深い議論はネットにもあった(http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3673369.html )。
 山すそにある立石寺本堂(根本中堂、1枚目の組み写真の上部分)からほぼ一番高いところにある大仏殿までほとんど垂直と思われるほど急峻な山で、20-30分はかかったであろうか。多くのお寺もそうであるが、よくぞこんなところに寺を作るもんだと感心するが、民を救うという情熱が何度も兵火によって失われようともそれを支えているのであろうか。そこを一番知りたいような気がする。ほぼ一番高いところにあると思われ、眺望一番の五大堂?から眺めた写真が1枚目組み写真の下部分である。下に見えるのは門前町とJR仙山線の山寺駅である。
 山寺を出て最後の宿泊地の松島に向かい、途中塩釜で美味しいお寿司をいただいて松島に到着した。翌朝早く、松島の幻想的な景色(3枚目の組み写真上部)を楽しんだ後、松島湾のクルーズに出かけた。その組み写真の下部分は船から宿泊した高台にあるホテル方向を見たものである。このブログの書き直しをしようと思っていた昨夜(2011年10月28日夜)、偶然NHKBS3の「新日本風土記}で松島のことを放映していたのを見た。それによれば、松島には湾内外に260余りの島があり、新しい考え方によれば、湾はその海岸べりの大規模な地滑りとその後の浸食によって作り上げられたとのことらしい。まだ証明されたわけではないが、興味深い考え方で、湾の浅さも考えやすいという。
 その番組によれば、この島々には縄文時代から多くの人が住みついていたようで、多くの貝塚には人骨も埋葬された形で発掘されているらしい。また、それらの島々は宗教的な意味を持っていたようで、島での生活は極楽浄土への道として存在していたようである。中尊寺も毛越寺もそしてこの松島でも極楽浄土という言葉をよく聞く。この地に特徴的なことなのであろうか。この松島がそのような場所であるのなら、もっと違った松島観光の仕方があるような気がする。4枚目の組み写真は、クルーズの時に子供が鳥に餌をあげているときの写真である。なぜか、美しい島々の写真は、見とれているうちに通り過ぎてしまって撮影できなかった。
 最後の写真は、今回の大震災を含めてこれまでの大規模地震や津波において、前面に位置する松島の数々の島々に守られてきた瑞巌寺の写真であるが、本堂ではない。特徴的な屋根を持つ庫裏で国宝である。訪れたときは本堂は大規模改修中であった。このお寺は臨済宗妙心寺派のお寺で伊達正宗の菩提寺でもあり、この地方の精神的支柱のようでもある。このお寺も含めた松島をまた訪れてみたいし、東日本大震災のことも現地で考えてみたい思いである。その時にもっと詳しくこの地域のことを記そう。
 この松島訪問を最後に3泊4日の東北の旅を終わり、26日仙台空港から帰阪した。

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