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2011年10月の記事は以下のとおりです。

敷布団にちょっとした細工をして軽い腰痛を消す

  • 2011/10/12 09:02

 この記事のオリジナルは2011年6月に書いたものだが、それが失われたので、写真を一枚増やして書き直すことにした。

 私は元来足腰が丈夫であまり問題を感じては来なかったのだが、ここ数年右腰上部の筋(背中側)に軽い違和感を感じ続けてきた。定期的なマッサージ治療でもそれを消すことは難しく、痛みにつながる前に何とかしたいと考えていた。ところがある朝、布団の中で上向きの状態で目が覚めると腰に強い違和感を感じるのを自覚した。そこでハタと思ったのは次のことであった。
 それを示すのが1枚目の写真で、人の脊椎を簡略に表した図である(「第1解剖講義ノート 系統解剖学篇2007年度版」神戸大学寺島俊雄著)。ご存じのように脊椎は二度頸部と腰部で前に出る、いわゆる前弯している。もし、背中側とお尻の部分がうまく布団におさまる形にならない場合には」腰の脊椎部分(図で腰椎前弯と書かれた部分)は宙に浮き、沈もうとして背筋を緊張させることになる、と思ったのである。
 そう思うといてもたってもいられず、その夜から敷布団の下に細工することにした。それを表したのが2枚目の写真である。丁度頭から腰の部分までにタオルなどを折りたたんで入れ、そして、違和感が少ないように頭の部分から腰に向かってゆるい傾斜がつくようにしたのである。頭の下のところでおよそ4センチほど、腰の部分でおよそ2センチほどの厚さにした。要するに、お尻の部分を下げることはなかなか難しいので、上半身の部分を少し上げたまでである。
 その効果は抜群であった。時には以前のような違和感を少し感じることがあるものの、それ以来この何か月ほとんど何も感じなくなったのである。私は走る人間であるが、それにも何の影響もない。満足している。もちろん、人が布団に上を向いて寝ている時間はきっとそれほどあるとは思ってはいない。その時間の間だけでも腰に負荷がかからなければよいのである。ひょっとすると、その細工が効いているのは、まったく別の理由によるものかもしれないが、要するにいろいろ改善の道を自分で捜して、それが効果的であればそれでよいのである。出来るだけ自分でやるしかないのであるから。
 こんな訳で、布団を敷くときには丁寧に「下敷き」を入れて敷いている。なお、私の枕はNHKの「あさイチ」に習って、寝返っても頭が回転し易いように平らである。そのため、玄関マットを三つ折りにしたものの上にマラソンレースの参加賞や完走賞としていただいたバスタオルを適度に折りたたんで置いてあるだけで、なかなか快適である。

第21回 2011 あざいお市マラソンに初参加し、復帰戦を楽しむ!

  • 2011/10/10 09:42

 雲ひとつなく晴れ上がり、ランシャツでも暑い昨日、滋賀県長浜市浅井文化スポーツ公園を中心に開かれたマラソンに友人菅原氏と初参加した。この大会は「全国ランニング大会100撰」に選ばれていてよく知られている。
 そのパンフは次のように言う。「皆様をお迎えするマラソンコースは、市の北部に位置し、コース沿いを流れる清流『草野川』や高峰『金糞岳』、源頼朝が平治の乱の際にかくまわれたといわれる『大吉寺』や浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が死闘を繰り広げた『姉川古戦場』など豊かな自然と多くの歴史や文化遺産に包まれております」。開会式には三姉妹ではないが、ひょっとすると浅井長政と江?と思われるゆるキャラが登場していた(1枚目写真)。
 そんな豊かな自然を感じながら、草野川西岸をほぼ7.5キロまでダラダラと登り続ける前半は、スピードが出ないスタート直後から続いていたためにじりじりとタイムに響いてきたように思う。そして、それを過ぎればず~っと下りと期待してが、思いのほか下りは短く、その後はまた上ったり下ったりそれなりにアップダウンがあり、最後の2キロが下りで楽をさせていただいた。そんな雰囲気を最近新しく手に入れたGarmin社のForerunner 110というGPS機能と心拍計付きの時計で記録したデータをお見せしたい。
 2枚目の写真は、そのコースを航空写真+地図に表示したもので、コースをかなり詳しく地図上に表示させることが出来る。実際にはパソコンでさらに大きく拡大して見ることが出来て、詳細もよくわかる。3枚目の写真は細長いものであるが、横軸はキロ表示で、左側の縦軸に1キロ当たりのラップ(分)、右側の縦軸には心拍数と標高が表されている。赤色は心拍数、青色は平均ラップ、背景の緑色は標高を表している。この時計のGPSは衛星を4個使用しているようで、あまり数が多くないために障害物があると少し距離、速度に影響が出るといわれ、また水平距離に重点を置いて計算されているために標高データにはかなりの誤差があるようである。今回の標高差は大会委員長によれば約100メートルと言われていたがほぼそれに近い値が表示されている。なお、ラップの青色の値が大きく上に振れている地点は、給水などがあるところ、あるいは走行中に混雑あるいはコース変更などでスピードが大きく変化した時である。
 このようなデータを数値に表したのが4枚目の写真である。この写真は、パソコンに表示した場合一度に全部表示できないので、部分的に表示されたのを上下につなぎ合わせたものである。今回は1キロ当たりのラップを自動的にとるように設定されているためにそのデータや平均速度が記録されており、さらにその1キロ区間での心拍数の平均、最高心拍数、どれほどコースの上り下りがあったのかが表示されている。
 私は昨年11月に「発作性上室性頻拍」という不整脈を、カテーテル焼灼術による心臓手術を受けて治療したことから(http://www.unique-runner.com/catheter1.htm )、今回のレースは1年7か月振りの復帰戦であった。そんなこともあってまだ思い切ってスピードを上げ、それを2時間続けることにはかなりの不安もあり、用心深く走ったというのが本当のところであった。その意味では、前半の上りはそれなりに、下りの多い後半もそれなりにスピードを上げて、そしてコンスタントな速度を維持して走り抜けたと思われる。 また、最も気にしていた心拍数も、後半じりじりと上がりながらも非常にコンスタントで、平均145、最高も154におさまり何の問題もないことがよく理解できる。また、装着した心拍計の値から計算された消費カロリーも1,480で、通常簡易計算する体重xキロ数の値(私の場合70x21=1,470)にどんぴしゃりである。それよりなにより驚いたのは、計測された距離は21.16キロで、ハーフマラソンの距離の21.0975キロにわずか60メートルしか違わない。普段、あまり空が開けていないところを走る時に起こる距離の誤差を全く感じさせないのには驚かされた。そして、私のネットタイムは1時間59分37秒と計測され、公式のネットタイムと全く同じであった。
 この結果から次のレースではもう少し自信を持って走れるかと思って楽しみである。今回から“新しい走法”を試したが、次までにさらに磨きもかけたい。なお、最後の写真は私と菅原氏(右側)との写真であるが、二人とも気分よく完走した後のうれしく穏やか表情である。菅原氏は、11月の神戸マラソン(フルマラソン)に出場するが(私は落選)、その前哨戦としてキロ6分をテストしたようで、自身による予想タイム2時間05分にどんぴしゃりのタイムでゴールした。ゴールで待ち構えた私に“すごく楽なレースでした”の言葉が印象的だった。

 忘れていましたが、地元産のコシヒカリ「あざいお市米」2㎏を参加賞としてバスタオルとともにいただきました。 感謝!

追記:なお、このForerunner 110によるデータは、http://www.travel-db.net/runners/blog/kumasan/20111009.htm にアップロードされています。データを操作して、写真の拡大、各地点での心拍数、速度などの細かいデータ(グラフの赤いボールをスライドさせる)を見ることが出来るようにしてありますので、一度ご覧ください。

山田中学―宇治山田高校野球部の系譜(2)

  • 2011/10/08 16:50

 山田中学―宇治山田高校野球部の系譜(1)で書いたことが、どうして私につながるかということをここに書いておきたい。このブログの内容は、ほかのブログもそうだが、ほぼ完全に私の個人的な記録に過ぎないことをあらかじめご了解いただきたい。
 系譜(1)に載せた写真をもう一度ここに出したい。その右下に「部員13人の宇治山田高 第39回三重大会で優勝」とある。この記事の中に「この年の宇治山田高は、三年生だけが男女共学で、一、二年生は新設の伊勢高校へ男子が集まったために、女生徒ばかりだった。そのため、野球部員が少なかった。そして、野球部は今年限りのはずだった(しかし、実際はのちに男女共学が復活した)。大正4年の第一回大会に山田中学が東海代表になっているので今年は『有終の美』を、の気持ちが周囲に渦巻いていたのだ。三重大会で抜群の力を見せた山高にとっても、三岐大会の壁は厚かった。河村投手を擁する多治見工を2-1でリードしていながら、8回裏にひっくり返されてしまった。」
 さらに私のこととして、「私は、中学時代(多気郡三瀬谷中)も選手でしたが、山高に進んでからは、通学に時間がかかるので(著者注、紀勢東線と参宮線の汽車を乗り継いで2時間弱)、野球をやめていました。ところが、いよいよ山高の野球部があと一年でおしまいになる。『甲子園、甲子園』という声が周辺でする。もうじっとしておれず、二年生の終わりに剣道部の村城君と一緒に野球部に入りました。それで部員の数が13人になりました」とある。
 なぜ父が、三瀬谷村という大田舎にいながらどうして山田中学に入って野球までしていたのかは全く不明で、どこでどう暮らしていたのかもわからない。しかし、私が中学を卒業する頃になると、なぜか卒業直前の3学期に、当時宇治山田市にお嫁に行っていた姉がいるからとそこに寄留し、越境入学の準備をしてしまっていたのである。だから、私の学歴では中学卒業は宇治山田市(今の伊勢市)の中学校なのである。それで当然宇治山田高校を受験し、首尾よく合格して、そして最終的に親父と一緒の野球部に所属することになったのである。
 山田中学が第一回大会に出場した(大阪府豊中市)後の大正6年父は主将として東海予選に出たが残念ながら破れて全国大会への出場はならなかった。その父が映っている大正6年の写真が3枚目である(後列一番左)。父はその後富山薬専などで勉強した後朝鮮にわたり、仁川商業の教師になった。そして野球部の監督となり、1936年、1938年、そして1939年の3度も朝鮮大会を制して甲子園にチームを引っ張ってきたのである。ほとほと感心する。だから、私は朝鮮生まれである。
 そして私もここの新聞記事にあるように甲子園出場はならなかった。そのときの甲子園の大会は第39回で、第40回大会は記念大会となりすべての都道府県から1校の出場が許されたのであるから、もう一年遅かったらと思わずにはいられない。
 最後の写真は、津球場で行われた三重県大会で優勝した時の写真である(私は後列左から3人目の選手である)。よく考えると充実した高校生活であったことを感謝している。なお、冒頭に書いたようにこのブログは完全に私自身のための記録であることをお許し願いたい。

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